質問: スポーツの話題に戻りましょう。例えば二人スポーツマンがいるとします。友好的にかもしれませんが、とにかくお互いに競っています。ボクシング、あるいはレスリングかもしれません。その両者が祈ればそれは良いことなのですか。

シュリ・チンモイ: はい。両者が祈ったら、両方とも神の守護を受けられ、自分の最高の能力を発揮することができます。しかし敵対心はそこにはありません。例えばボクサーが二人戦っているとしましょう。当然どちらも勝ちたいと思っています。そこで動物的な性質を前面に持ってきて敵を破滅させることもできます。また一方で、これは自分自身の能力を超えるチャンスなのだと捉えることもできます。隠れていた能力を前面に持ってこられるか試みるのです。我々の哲学では自分自身を常に越えようとします。常に向上するよう挑みます。自分を超越していく過程の中で相手を負かしたら、それは間違いではありません。しかし無理やり、悪い手を使ってでも相手を打ち負かそうとするなら、それは非常に大きな間違いです。

質問: スポーツ選手の知り合いが多く、その中には祈る人たちもいます。「お願いです、父なる神よ、今日の世界選手権で勝たせてください。」と祈るのです。そして成功する時もあります。このような祈りは良いものなのですか。

シュリ・チンモイ: その祈りは良いですが、最良の祈りではありません。最良の祈りは「御心のままに」です。救世主キリストはこの最も意義深い「御心のままに」というメッセージを世界全部に捧げました。

最強のスポーツマンの一人であるモハメッド・アリについてお話ししましょう。モハメッド・アリを知らない人はいません。とても親しい友人です。約10年前、ある試合の前に一緒に15分ほど瞑想しました。彼はイスラム教徒なので、アッラーに祈っていました。そして私は神に祈っていましたが、これは同じ存在です。一緒に祈り瞑想しました。その夜彼は試合に勝ちました。私の祈りはただ「神よ、御心のままになされますように。」でした。モハメッド・アリは親しい友人ですが、神がアリの中でアリを通して行うことが何であれ最良なのだ、とわかっていました。この祈りを神に捧げると、神は私たちに最善なことをしてくださいます。

質問: ということは、彼が負けることもありえたわけですね。その場合はそれが最良の結果だったのでしょうか。

シュリ・チンモイ: 全くその通りです。この場合神はアリに勝って欲しかったのです。それがスピリチュアルな観点からすると最良のことでした。しかしもし神が彼に「失敗」という経験を与えたかったのならば、また別の意味で非常に重要な内的経験を、彼は得たことでしょう。神が時に失敗の経験を与えるのは、他の競技者たちと分かちがたい一体感を確立してほしいと思われているからです。その時もし神に対する祈り「御心のままに」が誠実であるなら、神を愛しているので、失敗しても同じように嬉しく思うことでしょう。最愛のその存在は、私にとって何が最善か知っています。ですから自分たちの意思ではなく神の意思がなされるよう祈るのです。そうでないと、いつでも「勝たせてください、一番にしてください。」と祈っていることになります。最高のスピリチュアルな観点からするとこれは間違いです。自分たちの中で自分たちを通して神の意思が遂行されるよう祈るべきです。それが最良の祈りです。

質問: これまで私はプロのスポーツ選手でした。そして人生で何度か、「実際に行っているよりもっと自分にはできるのではないか。」と感じたことがありました。このような事は貴方にもよくありますか。

シュリ・チンモイ: 私の場合も同じようなことを何度も何度も経験しました。自分の最高の力を出し切っていないと感じました。ランニングで、「もっとずっとよく走れたのに。」と感じたことが何度もありました。しかし走らなかった。走れなかった。それでも不幸ではなかったです。なぜなら一番初めに神に「御心のままに」と魂からの祈りを捧げたからです。マインドは「全力を出せないようにされたのかもしれない。」と思うが、ハートは「違う」といいます。神に私の中で私を通してその意思を遂行してほしいと祈ったからです。レースで何が起ころうと、それがその時点で、神が私に世の中全体に対して表して欲しかったことなのです。ですから全く嬉しい気持ちでした。