第一場

[天国にて]

父なる神: 息子よ、とてもいい計画がある。聞いてくれるかな。地球に下りていって最も重要な役割を演じてほしい。

息子イエス: 父よ、我が父よ、実に素晴らしい考えです。

父なる神: 知っているように、地球のために働くこと、地球の意識を変革するために働くことは想像できないくらい困難な仕事だ。

息子イエス: でも父上、唯一無二のこの機会を逃したくありません。それによくわかっています。他でもない父上が、私の地球での巡礼の旅を力で満たしてくれることを。私には何の迷いもないのですから、これ以上ぐずぐずするには及びません。

父なる神 (大きな微笑を浮かべて): 息子よ、おまえの地球での時間は33年だ!

息子イエス: たった33年! それでは、どうやって仕事をやり遂げたらいいのです?

父なる神: おまえにならできるし、実際やり遂げるであろう。息子よ、地球では、ある者は歩き、ある者は行進し、またある者は走る。おまえの場合、最速で走るだけでなく、最高の高みを世に体現するだろう。身体が地球に留まるのは33年間だ。しかしその意識は地球の意識をいつまでもいつまでも導いてゆくだろう。息子よ、おまえは世界に対し、自分が道であり到着地である、と言うのだ。

息子イエス: 父上、今のお言葉で、私は混乱の海の中に陥ってしまいました。

父なる神:息子よ、何故だね、どうしてなんだね?

息子イエス: クリシュナ、仏陀、そして他の者が私の前を歩いてゆきました。父上、もちろん、私が地球を去った後も、その後を歩く者がいるのでしょう? ならばどうして世界に向かって、私一人が道であり到着地であると言うことができるでしょうか?

父なる神: 息子よ、私は「おまえ」と言ったが、それは実際、高みに上ろうとする「熱望」のことであり、「救済」のことだ。おまえは「熱望」という道を具現化し、「救済」という到着地を具現化する。熱望であり救済であるおまえが地球上で私に奉仕し、私を世に体現し、私を満たすのだ。息子よ、言わんとすることが分かったかな?

息子イエス: 分かりすぎるぐらいよく分かりました。言うまでもなく、父上の慈悲のおかげではっきり分かるようになりました。

父なる神: よく分かってくれてうれしい。私の姿を地球に顕わすとはうれしいことだ。地球上で私を体現するとはうれしいことだ。地球上で私を満たすとはうれしいことだ。おまえは私の道具だということを忘れないように。 Nimitta matram bhava savyasachin.

息子イエス: 父上、何語を話しているのですか。妙な響きなのに、とても素敵です。

父なる神: ああ、息子よ、この言語を知らないのかね? これはサンスクリット語だ。そして私が今口にしたのはおまえの兄弟クリシュナの高尚な言葉だ。クリシュナは最愛の弟子にこう言った。 「おおアルジュナよ、ただ私の道具となれ。」 おまえもまた、弟子や他の愛する者たちに、神聖な道具となるよう教えるのだ。息子よ、非常に興味深い、少なくとも楽しいことを教えよう。地球にいる間、おまえはサンスクリット語で書かれた聖典が教えられている場所に行く。その聖典から多くを学ぶことだろう。その場所には一年間いることになる。その一年は内的人生に非常に有意義なものとなる。

息子イエス: サンスクリット語とは何て妙な言葉でしょう! 何て甘美な言葉でしょう! 父上、お願いです、さっきのサンスクリット語の言葉をもう一度繰り返していただけますか?

父なる神: Nimitta matram bhava savyasachin.

息子イエス: ありがとうございます、父上。私はただの取るに足らない父上の道具だということは心得ています。それだけです。

父なる神: 息子よ、究極の秘密を知っているだろう? それは、謙虚な心だ。謙虚さが、超越の勝利の喜びを授けてくれるだろう。おまえは私を理解し、私もおまえを理解している。だが、世界からは誤解されるだろう。おまえは人類に、自分が持っているもの、自分のあるがままを与える ― つまり、限りない愛、気遣い、慈悲だ。しかし世界からはひどく誤解されるだろう。そして光のあたっていない、神聖でない、考えも及ばないような人間たちに殺されるのだ。

息子イエス: 殺されるですって! どうして? どうやって?

父なる神: どうして? それはその者たちが無知であるから。どうやって? 十字架に張りつけにされるのだ。

息子イエス: 張りつけ? 本気ですか、父上?

父なる神: ああ、本気だ。残念だが、そうなのだ。でも、よくわかっているだろう。滅ぼされるのは身体だけで、魂ではない。魂は不滅だ。魂の鳥は籠が叩き壊されたら、当然神聖な源に舞い戻ってくる。

息子イエス: 父上、なんて感謝を知らない人たちなんでしょう!

父なる神: 息子よ、まだ地球には感謝の心は生まれていない。一体生まれる日が来るのかどうか、あやしいところだ。しかし、張りつけにされる時、私に見捨てられたなどと考えてはいけない。人間の部分はそう思うだろうが、神聖な部分はそうは思わない。おまえは人間の形をとるので、時には人間のように振舞わなければならない。さもなければゲームにならなくなってしまう。人々は常におまえの清らかで光り輝く命と、自分たちの不純で暗い人生との間に大きな隔たりを感じるだろう。そのため、地球に縛られた自分の意識を超えようとは決してしなくなる。暗闇の中に光が降りてこなければならない。それで初めて光は闇を変革し明るくすることができる。他に道はない。人類の意識を変革するためには、人類とひとつになるしかない。人類の一部となるしかない。時には皆の限られた理解度に合わせて、同じレベルで行動しなければならないのだ。息子よ、他に道はない。

旅路の終わりに人間の部分はこう言うだろう。 「父上、どうして私を見捨てたのですか?」 しかし神聖な部分はこう言うだろう。 「父上、彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか、知らないのです。」 我が息子よ、断言しよう。おまえの中の死にゆく人の部分は、私がすぐに楽にし、責任を持って引き受ける。だが輝ける神聖な部分は、おまえ自身を不滅にするだけでなく、私が地球で完全に体現される時を早めるのだ。