瞑想:神が話し、私が聞く  part 2

目次に戻る

45. 祈り、瞑想、悟り

一つ一つの祈りが
新しい希望の日の到来を告げる
一つ一つの瞑想が
新しい約束の日の到来を告げる
一つ一つの悟りが
新しい至高の命の到来を告げる

質問: 瞑想、集中、観想そしてアスピレーション(高みへの熱望)に関する本でお勧めのものはありますか。

シュリ・チンモイ: 誰か特定のスピリチュアル・マスター(魂の師)の道を行きたいと思っていますか? なぜかと言うと、精神性は非常に広大で多岐にわたるテーマです。自分が献身の道を行きたいのか、それとも純粋で抽象的な概念を通して学びたいのかを知る必要があります。どの道を行きたいのか知らないといけないということです。そうすれば読んだ本から最大限の益を得ることができますが、そうしなければ勉強しても時間の無駄になるかもしれません。

インドの偉大なスピリチュアル・マスターであるシュリ・ラーマクリシュナに興味があるなら、あるいはヴェーダーンタやウパニシャッドの道を学びたいのなら、シュリ・ラーマクリシュナの愛弟子ヴィヴェーカーナンダの書いた精神的な書物や、他の弟子の書いた本を何冊か読んだらよいでしょう。インテグラル・ヨーガの道を行きたい、つまり統合的受容を学びたいのなら、シュリ・オーロビンドの著作を勉強したらよいでしょう。精神的観点から学びたいのなら、インドの元大統領ラーダクリシュナン博士の本を読んだらいいと思います。彼の本を読むことでインドの思想が明確になるでしょうし、インドの奥深い教えを理解する助けになるでしょう。集中、観想、瞑想に興味があり、何百年も前に使われた具体的なやり方を知りたい、そして瞑想の秘訣を知りたいなら、カピラのサーンキャ・シャストラと、パタンジャリのヨーガ・スートラを読んだらよいでしょう。瞑想だけでなく知的情報も得ることができます。

質問: ある人に瞑想したら、その人と内的領域で一緒にいることはできますか?

シュリ・チンモイ: もちろんできます。とても仲の良い友達がいて、その人があなたの内的生活に完全に共感しているなら、このようにしてみてください。あなたはその人の中に入っていき、その人と同時に呼吸をします。誠実で献身的でアスピレーション(高みへの熱望)を持った二人の魂が毎日一緒に座り呼吸の練習をしたら、成果を得ることができます。1、2、3と数え同時に呼吸するのです。そして数えるのをやめてください。息を吸っているときは、その人もまた息を吸っていると感じましょう。お互いを見て目で会話してください。二人がお互いを見て座り、このように一体化の感覚を育むことができたら、この一体化の力を同じように世界全体に放つことができます。その人があなたと別のところ、何千キロも離れた場所にいたとしても、その人が何を考えているのか簡単にわかります。

この内的一体化はすべてのスピリチュアル・マスター(魂の師)が行っていることです。毎朝毎夕、また他の時間でも、世界中のいろいろな場所にいる献身的な弟子に対して私はこの一体化の力を使います。そうするとその弟子たちがしていること全てが見え、聞こえ、知ることができます。特に考慮する必要のない些少な事柄もたくさんありますが、何か非常に深刻なことがある場合は、それが実際肉体の世界に触れる前に、マインドの領域で破壊しようと試みます。あなたの質問されたことですが、それは可能です。そして言わせて貰えば、これはすべての誠実な真実の熱望者、そして特に、人類に奉仕し人類を助けたいと思っている指導者がしなければならないことです。その人の領域が精神的、政治的、どんな領域であろうともです。

質問: 形のないスプリームに直接行く事は可能ですか? それとも「Aum(オーム)」のような言葉でスープリームを呼び起こす必要がありますか。

シュリ・チンモイ: 形あるものから形なきものへと行く必要があります。シーカー(真実の探求者)は形なきものから形あるものへとは行くことはできません。教会へ祈りにいくと、神の名またはキリストの名を口にします。キリストはここ地球に降りてきて、その真実が目で見えるように、私たちと同じ人間の形をとりました。同じように「Aum(オーム)」を唱えると、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの(ヒンドゥー教)三柱、つまり創造神、保持神、変革神を呼び起こします。この三大神全てに形があります。

質問: では、形なきものに入っていくのにAum(オーム)を使えますか?

シュリ・チンモイ: できますし、また、そうしなければなりません。音楽では有限そしてまた無限も感じることができると知っていますね。音楽は有限の形をとっていますが、その形を使い音楽へ入って行きます。有限を通して入っていくと、音楽が無限へ連れていってくれると感じます。しかし始まりは有限です。同じようにスピリチュアルライフでも、神の名から始めれば大きな助けになります。何年かしたらもう神の名を唱える必要はなくなり、意識それ自体へ入っていきます。最も深い瞑想にいる時は、スープリームも神も、誰の名も口にしません。その時はただ神との一体感の中に存在するのです。

最も深い瞑想の中に、神は我々のアスピレーション(高みへの熱望)を見出すので、その時神に平和も光も何も求める必要はありません。神の名を口にする必要は無いのです。なぜなら、私たちが何を求めて泣き叫んでいるか神は知っているからです。母親は子供が何を求めて泣いているのか知っています。同じように最も深い瞑想にいれば、我らが母であり父である神は、私たちが何を必要としているか分かっています。

質問: スピリチュアル・マスター(魂の師)の写真にどう瞑想したらいいですか?

シュリ・チンモイ: スピリチュアル・マスターの写真の前で瞑想するときはいつでも、その写真が具現化しているそのスピリチュアル・マスターの意識と一つになろうとしてください。一体化しようとしてください。その意識と一体化したければ、まずは写真全体に集中してください。段々と、顔だけに注意を向けるようにします。それから眉毛の間の少し上に注意を向けます。そこにその師の実際の内的、精神的な富が見つかります。これがヴィジョンの場所である第三の目です。そして内的現実のヴィジョンと自分を一つにできた瞬間に、最高の成果を得ます。

写真を見ながら純粋さを得たいのであれば、瞑想の前に五分間、師と同時に息を吸っていると想像してください。師も同じように息をしていると感じないといけません。師と弟子が五分間一緒に息を吸うのです。

質問: 初心者の場合、今読まれたようなアフォリズム(金言)にどう瞑想したらよいか教えていただけますか。

シュリ・チンモイ: 分かりました。今日の瞑想は、

照らされたマインドが必要
神の命全体を学ぶには。
献身的なハートが必要
神の不滅の愛を感じるには。
明け渡した魂が必要
神の無限の喜びを悟るには。

でしたが、キーワードはどれでしょう。まず「照らされたマインド」です。 複雑なマインド、知的なマインド、疑うマインド、苛立ったマインドは毎日目にします。しかし私が使ったのは「照らされたマインド」です。照らされたマインドとは何でしょう。光で溢れているマインドのことです。神聖な光で溢れるとたちまちマインドは輝きます。光がない、あるいは非常に少ない光しかない場合、それは単に複雑で、知的で、疑い、苛立った破壊的なマインドです。

次の大事なフレーズは「神の命全体を学ぶには」です。人の人生は60年、70年、または80年という短い期間です。しかし「神の命全体」は永遠を表し、永遠には始まりも終わりもありません。始まりのないもの、終わりのないものを想うには、照らされたマインドが必要です。普通のマインドではこのような考えは到底理解できないからです。普通のマインドはたった二つのことを同時に考えることもできないし、ましてや二つのことに同時に集中することなどできません。しかし照らされたマインドなら、一度に20のことを考えることも可能です。

この表現から、考えるべきことは「神の命全体」、そして目指していくべきものは「照らされたマインド」だと教えられます。このような考えと高みへの熱望に、自分の中に入ってきてもらいましょう。そしてそれ自身の世界を作ってもらいましょう。そうすれば何か崇高なものに瞑想しているとわかります。このアフォリズム、つまり魂がこもった、鼓舞されるものを読むことで、考えるに値することは何か、そしてそれをどのように考えたらいいのかというヒントを受け取りました。

「献身的なハートが必要 / 神の不滅の愛を感じるには。」人間の愛が長続きしない事は分かっています。それはほんの一瞬の経験です。しかし不滅の愛、神の不滅の愛は永遠に続き、いつでもあなたと人類の両方を満たします。どの人も良い、純粋なハートを持っています。マインドとバイタルは悪者で、ハートの輝きを奪うかもしれません。しかし、ハートはいつでも良い存在です。バイタルをハートと間違えて、あの人は悪い心の持ち主だ、と言うことが非常によくあります。しかしこれは正しくありません。すべての人が素晴らしいハートを持っていますが、ハートは母親のそれのように献身的な資質があるときのみ、きちんと機能します。人間のハートは純粋で誠実かもしれませんが、献身的なハートを持って初めて、神に尽くし神を悟り神を満たそうとします。ハートを活用しスピリチュアルライフに献身・専心しようとしない人たちはたくさんいます。このような人たちにとって本当の成長は不可能です。献身的でないハートは、常にあちらからこちらへと焦点が移ります。献身し専心しているハートだけが神の不滅の愛を感じることができます。

「明け渡した魂が必要 / 神の無限の喜びを悟るには。」すべての人に魂がありますが、残念なことに明け渡しというのは未だ起こっていません。ほんの一瞬誰かに明け渡すことがあるかもしれません。例えば妻が夫に明け渡すかもしれないし、夫が妻に明け渡すかもしれません。しかし「明け渡した魂」とは、永遠、それでなければ一生涯ずっと、完全に常に明け渡している魂のことです。神は神聖な資質を全て持っているし、神聖な資質すべてそのものですが、その最も重要な資質は「喜び」あるいは「歓喜」です。神の無限の喜びが見たいなら、徹底して、完全に、無条件に明け渡す必要があります。「明け渡した魂」に成っていかなければならないのです。無条件の明け渡しとは、奴隷が主人に降伏することではありません。意識して自らの意思で明るく明け渡すことです。熱望する者は神の意思に明け渡します。なぜなら神の意思に明け渡すことで神そのものと一つになっていくと感じるからです。意識した無条件の明け渡しを、神はこの世の一人一人に求めています。シーカー(真実の探求者)が自分自身を完全に神の意思に明け渡すことができたら、神の無限の喜びを感じることでしょう。

このアフォリズムを私なりに説明してきましたが、あなた自身の方法で解釈することも可能です。 魂のこもった精神的文章をいくつか読んだ後、または私の本の精神的アフォリズムにあるその日の瞑想を読んだ後、それに瞑想して、神聖な考えや思いにマインドの中に入ってきてもらいましょう。キーワードや考えを選んでください。例えば「光明」「神の命」「献身的なハート」「不滅の愛」「明け渡した魂」「無限の喜び」などです。そしてハートを広げその考えに入ってきてもらってください。このような神聖な考えに本当に集中すれば、神聖でない愚かな考えに邪魔される事はあり得ません。なぜならマインドは光明の世界にいるからです。誠実に「光明」を思うなら、光明しかあなたの中には入って来られません。献身的ハートを思えば、ただ献身しかあなたのマインドと意識の中には入って来れません。明け渡した魂を思えば、明け渡した意識があなたの中に入ってきます。

初心者は以上のようにして瞑想を行うことが可能です。あなたが初心者ならば、少なくともスタートを切ったわけですから、今の能力についてあまり心配しないでください。どのレベルにいようと、始めてください。これが初めて瞑想に入っていくやり方です。瞑想中に考えがなく、思いもなく、マインドもないという時が段々とやってきます。その時は、神聖な考えも神聖でない考えもあなたの中に入って来ません。ただ現実、永遠の現実だけがあなたの中で育っていきます。

質問: 外的世界でどうやって内的平和を得ることができますか。

シュリ・チンモイ: そのためには定期的に瞑想する必要があります。外的世界に入る前、あなたは自宅の自室にいます。家にいて5時間、6時間または7時間睡眠をとります。その時は自分で自分を管理しています。誰にも邪魔されず、マインドの中に入ってくる人は誰もいません。望むなら扉に鍵をかけ、内側から鍵を閉めて誰も入って来れないようにすることもできます。これがあなたの外的な、この世での存在です。自室があり、他の誰も入って来れないようにします。これと同じように、自分の内的存在を完璧に強くした時、自分の内的な扉も閉めておくことができます。これはあなたの感覚の扉です。あなたの内的存在は筋肉のように鍛えることができます。毎日運動すると、筋肉がどんどん強くなっていくのがわかります。スピリチュアルライフでもまた、一日の喧騒に入る前に、家で15分から30分定期的に瞑想したら良いでしょう。

さて、瞑想する時はいつでも、幾らかの強さ、内的強さを得たと感じるようにしてください。そしてこの強さは確かなものです。頭の中で作り上げているわけではありません。10分瞑想してから出かけたとします。もし2人の人が喧嘩しているのを見かけても、その人たちの中にあなたの内的平和が入っていくことはないかもしれません。その人たちは今別の世界にいるからです。しかしその内的平和はあなたを守ってくれるのに十分な力を持っています。影響されない、ということです。その人たちに残酷または無関心でいるということではありません。もしそうだとしたら、あなたはその喧嘩している人たちより悪いことになります。傷つけ合ってるその人たちに同情を寄せないわけではありません。そうではないのですが、その人たちが喧嘩しお互いを苦しめているのを見て、何かドラマか劇のシーンを見ているようだと感じるのです。あなたの内的存在、つまりあなたの中の真の真実は影響されません。一方でその人たちが何か間違ったことをしているのが見えます。もう一方で、あなた自身はその間違ったことをしていないのも見えます。

スピリチュアルライフを歩んでいない場合何が起こるかというと、すぐにどちらかの味方をします。「この人は誠実だ、この人が悪いんじゃない。本当に悪いのはもう一人の方だ。」と思うのです。または自分自身の中に一種の神聖でない資質を持つことになります。自分の内側から、神聖でない攻撃的な資質が前面に出てくるのがわかります。もし自分も強かったら誰かを殴るのに、と思うのです。神聖でない人を見ると、自分が精神的でない場合、いやたとえ精神的であっても、自分自身の神聖でない資質が前面に出てくることがあります。しかし真に精神的であるなら、自分自身の精神的資質が前面に出てきて、神聖でない資質を使い言い争ったり喧嘩したりしているその人たちの中に、その神聖な資質が盗人のように入っていこうとします。

自宅を出て世の中に入っていく際は、よく守備を固めていないといけません。鎧で固めるのではありません。神聖な考え、神聖な思い、神聖なゴールで自分を守るのです。ゴールがあればたちまち、そのゴールにだけ向かって歩きます。我々には運命のゴールがありそのゴールに向かって走っています。見ている人がたくさんいて、時には馬鹿にされたりもします。そんなスピードじゃだめだと言われたり、いろいろなやり方で馬鹿にされます。世の中はそんなものです。皆と同じように振る舞わないと、すぐに無関心だ、あるいは頭がおかしいと思われます。しかし自分のゴールがあるとわかっていて、その運命のゴールへ走っているなら、その人たちが何を言い、どんな人生を送っていようと、影響される事はありません。自分の中の神聖な部分が守ってくれると同時に、無知の快楽を貪っているその人たちに光を少し捧げたいと思うため、その人たちはいくらかの光を得ます。

しかしそのためには早朝に瞑想する必要があります。皆が瞑想しなければいけません。精神的探求者にとって早朝の瞑想は最も重要です。朝の瞑想をせずに出かけたら、自覚があれば、吠えるライオンに立ち向かっているようだと絶対に感じます。しかし非常にしっかりと確かな瞑想をした後で出かけたら、犬、そう、最も忠実な犬が自分の後をついてきていると感じるでしょう。内的存在が不屈の平和、光、力で溢れているからです。瞑想を携えて行かないのなら、吠えるライオンに貪り食われてしまいます。非常に良い瞑想の後で出かけるなら、熱望の世界、果ては苦しみや鬱や失望の世界までもが、自分の中に何かを見出していると内的に感じるでしょう。私たちについてこようとするのです。渋々そうする時もあれば、喜んでの時もあれば、強欲からの時もありますが、とにかくどうにかして犬のようについてこようとするのです。

質問: 瞑想を通して神聖な経験に到達するのですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想を通せば絶対に神聖な経験を得ます。瞑想は手段です。瞑想したら確実に神聖な経験を得ます。瞑想しなければ普通の人間の経験しかしません。瞑想が唯一の答えです。瞑想が神聖な世界へ入っていく鍵です。

質問: 貴方のお話は御自分の内的体験に基づいていると言われましたが、そのような経験をどうやって得たのですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想からです。集中と瞑想と観想から得ました。精神的コミュニティーに20年間おりました。同じようにあなたも14年、16年、20年と精神的鍛練をすれば、自然に溢れるほどの内的知識を得るでしょう。自分は12歳から32歳まで、厳しい精神修養を行いました。集中、瞑想、ヨーガです。今日私にあるものは、日々瞑想を8時間、10時間、12時間、14時間と行った結果です。学校で勉強し修士号を取ったら、世に広くにその知識を捧げることを始めます。内的人生でも同じように、集中し瞑想し観想すると内的叡智と内的光の世界へ入ります。自分が得た光、歓喜、力をそこから自由に前面に持ってきて、他の人に捧げることができます。

質問: 外的経験は一時的とみなされるべきですか。

シュリ・チンモイ: 全ての経験が助けになりますが、その一つ一つを詳細までは覚えていません。経験全体を外的世界で保つ事はせず、内的世界で経験の真髄を保持するのです。12歳の時にした経験は今はもう覚えていません。外的生活ではすっかり忘れてしまいましたが、内的人生でその真髄が残ります。内的世界では何も失われません。全てが記録されています。外的世界ではある経験はしばらくの間現実のものですが、何日か経つと完全に失われてしまいます。悟りに至る前は、外的生活では確実に全てが変わっていき、毎日の意識の中に残りません。しかし内的人生では真の本質が残ります。

質問: 瞑想中に突発的に起こる小さな経験は悟りの一部なのですか。それとも悟りへの小さな一歩なのですか。

シュリ・チンモイ: ある意味経験の一つ一つが悟りへ連れて行ってくれるものです。一つ一つの経験が悟りへの一歩なのです。しかしまた、ゆっくり歩くのではなく、非常に速く走る力があるのなら、神を悟る前に何千も何百万もの経験をする必要はありません。確かに一つ一つの経験が助けになります。自信と喜びをもらえます。今日はマンゴー、明日はオレンジ、明後日はまた別の果物を食べたいと言う人もいるかもしれません。「ゴール」と言う名の果実を得る前に、いろいろな果物の味見を少しずつするのです。しかし完全に満足するのは、ゴールの果物を食べた時のみです。ただ、もしその人が完全に誠実で、悟り以外何もいらないのなら「他の果物は何もいらない。私の運命の果実、ゴールである果実、完全に満足できる果実しか欲しくない。」と言うことでしょう。

質問: 瞑想で超越の経験をするにはどうしたらいいですか。

シュリ・チンモイ: 超越の経験をしたいなら、内的修養と共に、特別な瞑想をする必要があります。何かを集中的にしているだけでは、必ずしも求めているものは得られません。例えば、水がない場所で穴を掘っているとしましょう。掘っても掘っても水が出なかったら、どうしようもありません。しかし適切な場所で穴を掘れば水が得られます。同じように、適切な瞑想、適切な指導、適切な自己修養があれば必ず超越の経験ができます。

質問: 瞑想している時に、すべての方向を見ていると感じることがあります。これは何を意味しているのでしょうか。

シュリ・チンモイ: 瞑想している間あなたはすべての方向を見ているのです。その時あなたの意識は広がっています。あなたはこの世にいるたくさんの人の中の一人ではなく、世界全部があなたのもので、あなたも世界のものだと感じています。世界はまさにその時、あなたを世界自身のものとできるのです。今この時点であなたは、世の中を自分のものには全くできません。お兄さんお姉さんそして他の家族のみんな‐この人たちは自分のものですが、それで終わりです。しかし瞑想中に自分の周りのもの全てを見ていると感じるなら、その時全てはあなたのもので、皆があなたのものです。内的にあなたはすべてを自分のものとでき、周りのすべてもあなたのことを自らのものとできるのです。これはとても良い経験です。

質問: 瞑想中、自我(エゴ)が邪魔しているとよく感じます。

シュリ・チンモイ: 自我には人間の自我と神聖な自我があります。神聖な自我は「普遍の意識との分かちがたい一体感」と呼ばれるものです。神聖な自我の中で、「私」が普遍的になります。個人としての自己より大きくなり、全ての人と一体感を確立します。瞑想中に自我が前面に出てきたら、自分は小さな「私」ではなく普遍の「私」なのだと感じてください。

質問: 一度瞑想中に、内側にも外側にもいない、という経験をしました。固体性がなかったのです。何も形がなく実在するものもなく、現実味もありませんでした。自分がどこにいたのか何が起こっていたのかわかりませんでした。

シュリ・チンモイ: これは良い経験です。あなたは内側にも外側にもいなかった。ではどこにいたのでしょうか。内側にいないとはつまり自分の最高の現実の内側にはいない、ということです。そして外側にいないとは、外に向かっていくエネルギーの中にいない、ということです。内側には「純粋」のメッセージがあり、外側には「美」のメッセージがあります。あなたは内側の本当に奥深くまで入ってはいないのです。そこは純粋が大きくそびえるところです。また同時に、あなたは外側の本当に奥深くにも入っていないのです。そこは美が体現された場所です。内側が純粋になると外側が美になります。

さてこれは真実を経験する一つの方法です。しかしこの真実を経験するもう一つの方法は、不完全な外的世界と、完全な内的世界を手に持ち立っていると感じることです。あなたは人生で外的世界と内的世界をつなぐ橋です。そこであなたは外的世界でもないし内的世界でもありません。内的世界が体現されるように、内的世界を外的世界に持ってきます。そして外的世界が悟れるように、外的世界を内的世界に持っていきます。

質問: 友人にピアニストがいるのですが、こんな経験を話してくれました。ある曲を、非常に早いアプレシオで弾いていたのですが、その曲のスピードを遅めることなしに、立ち止まり自分が演奏している音の一つ一つを見ることができると突然気づいたそうです。音階を見ていたのですが、まるで他の領域からそれをしているようで、そこでは時間がこの世での時間とは違う様相のようだったということです。非常に早く演奏しているのに、その間中自分がしていることを見ていたのです。ここでの時間の観念とは何の関係もないようでした。これは集中の一例なのでしょうか。

シュリ・チンモイ: それは集中ではありません。その人の魂が演奏し、そして二つの世界に触れていましたが、何にも集中はしていませんでした。魂が二つの世界とやりとりをし、彼はただそれを観察していたのです。

質問: 奥深くに行き始めると、眠く感じるのですが。

シュリ・チンモイ: 違います、それは眠りではありません。瞑想中、マインドが落ち着いた静寂の世界へ入っていっているのです。そこでは何も動きを作る必要がないし躍動的である必要もありません。この静寂の世界は普通の眠りとは違います。普通の眠りでは完全に意識がなくなりますが、ここは非常に良い状態の世界です。ただ最高の誠実さと謙虚さと献身で、その状態に成っていくようにしてください。

もしまだきちんとした瞑想になっていなく、ただ瞑想の準備中に眠いと感じるなら、それは無気力と怠惰のしるしです。しかし良い瞑想の後でこの感覚が来るのなら、それは眠りなどではありません。あなたは静寂の世界へ入っていくところで、間違えて眠りだと思っているのです。

質問: 深い瞑想中に、自分の体全体が完全に麻痺して、まるで麻酔をかけられたようになってしまう時があります。目しか動かせません。

シュリ・チンモイ: これは非常に良い経験です。静寂の経験です。瞑想中に、マインドがハートに完全に明け渡したのです。ハートはマインドを一緒に連れて行き、どちらも魂に明け渡します。その時得られるのがこの静的静寂の感覚です。その静寂の中に留まろうとしてください。怖がらないでください。全く恐怖なしに、そこに2、3日あるいは1ヶ月でも留まることが可能です。そしてこの静寂は、躍動的静寂へと成っていきます。その静寂自体の中に、自発的創造性と自発的動きと自発的生命、つまり精神的目覚め、精神的経験、そして精神的啓示の生命を感じるでしょう。

質問: 瞑想中、体がリズミカルに動いているのを感じる時があるのですが、目を開けると全く動いていないのです。

シュリ・チンモイ: これは非常に良い経験です。あなたが感じている動きは内的世界にあるもので、微細な体で起こっているものです。目を開けると体の意識を自覚します。それはまだ肉体の世界では体現されていない、あるいは体現する必要のないものです。瞑想中に飛んでいると感じても、その動きを肉体の世界で体現する必要はありません。鳥も飛行機も飛ぶことはできても、その意識があなたの意識より高いことはありません。

自分の中に溢れるほどの平和を感じるなら、すぐにそれを目の中に、肉体の意識の中に体現しようとしてください。光を感じるなら、体現しようとしてください。ここ地球で平和がある人はほとんどいません。平和があるなら、その平和を外的世界に持ってきて体現することで、たちまち世界全体の問題を解決することができます。この世界には平和が必要です。愛が必要です。喜びが必要です。神聖な資質全てが必要です。

微細な体で飛べても、肉体の領域で飛ぶ必要はありません。それは鳥と飛行機の仕事です。私の喜びは、平和、光、至福を見て感じ、それを自分の外的生活で前面に持ってくることです。このような神聖な資質を体現することで、人類の大きな助けとなり神を満たすことができます。

質問: 例えば黄昏時に集中していると、何かささやきかハミングのような振動が聞こえる時があります。この振動は私自身の微細な体から来ているのですか。それとも地球あるいは大気の振動ですか。

シュリ・チンモイ: その振動はあなたの微細な体から来たものです。特にあなたの場合、外から来たものではありません。

質問: 魂が体から出る感覚を目標とすべきですか。その場合魂が戻って来なかったら体はどうなるのですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想中に意識を体の外に持ってくるようにと言いますが、その体を死なせたり破壊したいわけではありません。限界がある意識を体から出し、それを普遍の意識に投げ入れなければならない、ということです。

私たちが目指すのは有限から出て無限に入っていくことです。瞑想中全てに行き渡る平和、喜び、至福、そして力を感じます。これは通常は感じないことです。体のことを思うとすぐに限界が来ます。牢獄にいるのです。身長はたかだか百数十センチです。しかし魂のことを思うとすぐに無限、永遠、不滅を四方に感じます。

高く、より高く、最も高いレベルの意識に対しては、二つの考え方があります。もしその人が世の中で、世の中のために働きたいなら、どんな高みへ行ったとしても、神はまたあなたが世の中に戻ってくる機会を与え、保証してくれます。そのシーカー(真実の探求者)に神のために働き、ここ地球で神を体現してほしいと思われているからです。しかしここ地球で体現することを望まないのなら、より高い世界にとどまる機会を与えられます。その人の魂は体に戻ってくる必要はありません。

体に魂を戻す事を考える必要はありません。世のために働くなら、瞑想を通して帰ってこれるように、神御自身が障害物なしの陽光の道を開いてくれるでしょう。瞑想で魂、または意識が体から外に出ますが、再び戻ってきます。あなたは世の中を受け入れ世の中のために働きたいと思っているので、どこへ行こうとも、最高の高みへ連れて行ってくれた瞑想が、再びその高みからあなたを連れて帰ってきてくれます。ここ地球で神性を現し満たすために。

67

あなたが恍惚と呼ぶもの
それを私は
集中の槍、と呼ぶ

あなたが恍惚と呼ぶもの
それを私は
瞑想の煌き、と呼ぶ

あなたが恍惚と呼ぶもの
それを私は
観想の舞、と呼ぶ

質問: 太陽の光を見てから目を閉じると、眼前に丸い円形が見えることがあります。それは花の色で、エネルギー体の色だと表されたりするものです。これは私自身のエネルギー体なのですか。

シュリ・チンモイ: 自分自身のエネルギー体の反射が見える時もあるし、見ている物体の反射したものが見えることもあります。すべてのものには微細な部分があります。壁でさえ微細な部分があります。壁の形を見ているけれど、壁の向こう側あるいは壁の内側に微細な姿があります。その微細な部分が前面に出てくるのが見えているのです。

質問: 瞑想中に見える光の色や質は、瞑想をより高いところへ、良質のものへと導くのに使えますか。

シュリ・チンモイ: そうですね、使うこともできます。しかしその光または色の持つ意味を知って初めて助けになります。瞑想中に見た色の意味がわかれば、スピリチュアルライフで自分が成長しているのかどうかが分かります。例えば非常に深い瞑想中に青い光を見たとしましょう。この光は瞑想から来たもので、想像したものではないとわかっています。深い瞑想から来たものだとわかれば、すぐにこの青い光が精神性の光だということがわかります。この光は自分が広大な青い空になっていくという意味です。またその光は、無限と意識的に一つになっていくという意味でもあります。青い光の意味を知らなければ、ただなんて美しく素敵な色なのだろうと気づくだけです。これはある程度までは助けになります。青い光を見ることであなたの内的存在は成長するからです。しかしあなたの外的存在がその色の意味するものを知っていれば、もっとずっと早く進化し前進できるでしょう。

マントラを繰り返し唱える時も同じです。サンスクリット語のシュローカや詞を唱える時もです。シュローカの意味を知った上で魂を込めて称える時、そこから最高の益を出ます。シュローカの意味を知っている学者はたくさんいますが、魂を込めて唱える事はしません。オウムのようにマントラを繰り返しますが、何も成果を得られません。それに対しシーカー(真実の探求者)は学者のようにシュローカに精通してはいないかもしれませんが、基本的な意味は知っていて、非常に心を込め献身的にそれに対し祈り瞑想するので、最高の成果を得ます。インドの聖典を学んだ者はたくさんいます。その人達は青は広大さ、赤は力、金は体現、白は純粋、緑は新鮮と躍動を意味する、と知っています。その事実は知っているのですが、その色に瞑想しないので成果を得られません。一方誠実なシーカーで、そのような意味を知らないまま色に瞑想する者もいます。この場合確実にその瞑想から成果を得ますが、もしマインドで意識してその色の意味を知っていたら、最高の成果を得ることができます。青い光を見たとしましょう。10日間あるいは2ヶ月ほども続くかもしれませんが、その間その経験があなたの意識を非常に高く広大なものにしてくれます。もしあなたの内的存在がインドのスピリチュアル・マスター(魂の師)であるシュリ・クリシュナと特別なつながりがあったとしたら、「主クリシュナの色は青だ。」と思うでしょう。自分を一体化することで、シュリ・クリシュナからすぐに何かを得ます。意識していようと、無意識であろうと。

弟子に対して言っておきたいのは、私はすべての色とすべての光を表すけれども、最も主要な色は青と黄金です。色が見えたらそれが何色でも、内的な成長のしるしだと感じてください。シーカーの中には、肉眼の視力が落ちてきて光が見える人もいます。私の兄が視力を失いつつあった時、赤青白の凄いヴィジョンが見えていました。この兄は家族の他のメンバーのようには瞑想していませんでした。かかった医者には眼科の専門医に行くようにと言われました。しかしこれはあなたには当てはまりません。全く違います。これは、意識して祈ったり瞑想したりしない人達だけの話です。

自分には全く関係のない光を見ることもあるかもしれません。睡眠または瞑想中に、あなたの内的存在が誰か他の人の内的存在とやり取りした場合、あなたに見える光は自分のものではなくその人の光です。

仮に瞑想中にあなたが娘さんと完全に一つになったとしましょう。娘さんに瞑想したわけではなく、スープリームに瞑想していたのに、あなたの内的存在の一つが突然娘さんと非常に親密なつながりを持ったのです。あなたの肉体のマインドは全くそれに気づいていないのですが。その時に緑の光が見えたら、緑は躍動と新しい創造を意味するので、自分の人生で何か新しい創造が始まったと思うかもしれません。自分が非常にダイナミックで新しくなるのを期待するでしょう。ところが次の日になってもまだ以前からの考えに苦しめられているのに気付き、「あの経験をした後でなぜまだ前からの考えの中にいるのだろう。これまでの人生の牢獄から出ることができない!」と自分を罵ります。残念ながら、この経験はあなた自身の内的人生ではなく、娘さんついての経験だということを知らないままなのです。

誰かとても近しい人がいる場合、その人と一体化することが非常によくあります。実際はその人の人生で起こる事を自分の人生で起こる事だと感じるのです。しかし瞑想中よく意識していれば、区別がつきます。自分に近しい人の光が見えたら、その人は何かを得ます。そして意識的あるいは無意識に喜びを得ます。しかしその人の光をあなたが見た経験を告げてあげたら、その人のマインドが自覚でき、最も大きな恩恵を得るでしょう。

目を閉じていた方が青い光をより早く見ることができると思うなら、どうぞ目を閉じたままで行って下さい。しかし光を見るのと、目を開けたままで私の神聖な意識と一つになるのと、どちらが最速に進歩できるのか見極めてください。青い光を見たらそれですべてを達成したと感じるかもしれません。しかし、何色であろうと光を見ることは究極の達成では必ずしもないし、最高の経験でもない、と言っておきましょう。弟子にとって一番大切なのは私の光と一体感を確立することです。私の意識と意識的に魂から一つになることよりも青い光に益があると感じるなら、それは間違いです。一方、青い光が自然と自分の所へ来たので、とてつもない進歩を遂げることができると思うなら、もちろん正しいことをしています。どうしたら最も早く成長できるのか、感じ方はその人によって違うからです。

質問: 瞑想中にとても青い光が見えるのはどういう意味でしょうか。

シュリ・チンモイ: 青い光は無限の光です。青い光が自分の周りまたは誰かの周りに見えるのは、あなたの内的存在が広大な無限に呼応しているということです。あなたの精神性が成熟し内的・外的存在の中に入ってきたということです。これは非常に良い経験、非常に高い経験です。白い光は精神性です。青い光もまた純粋な精神性の光、無限の光です。例えば主クリシュナのようなスピリチュアル・マスター(魂の師)の周りに青い光が見えたら、それはそのマスターの主要な光は青色だということです。ただスピリチュアル・マスターによっては、オーラにすべての色を含んでいる場合もあります。

質問: これまでに赤、白、青、そして黄色の光を何度も見ました。この光の意味を教えていただけますか。

シュリ・チンモイ: 赤は神の躍動的な側面で、あなたはその神聖な力を自分の内側に見ています。神聖な力である赤色が自分の中に入ってくると、活力を得ます。内側を力が流れるのです。

そして白は純粋の色です。周りと上の全てに白が見えたら、自分の肉体の存在全体が純粋さで溢れていると感じます。あなたが不純というのではないのですが、頭頂から足先まで自分の存在全体に白が見える時、純粋になります。薄青色が見えたら、無限が自分の熱望の意識の中に入ってきていると感じてみてください。「無限」を単に頭の中の一つの言葉として考えることはできません。マインド(頭)は 長い距離を想像し、そしてそれをほんの少し先まで伸ばして終わりです。しかし魂で熱望すると、意識を真に、無限そのものまで広げることができます。無限は、果てしなく翼を広げ続ける鳥のように広がり続けます。青が見えたら、自分の意識が無限へと広がり、無限があなたの熱望の意識へ入ってきていると感じてみてください。この薄青色はインド最高のスピリチュアル・マスター、主クリシュナの一番好きな色です。

さてあなたが黄色と呼んでいる色は内的ヴィジョンを使うと、実は金色だとわかります。この金色は最高の意識の領域から来たものです。体現の領域でこの金色を見ると、完全な赤色の時があります。一方源に行けば完全な金色です。体現は天ではなく、ここ地球の意識の中で起こります。この金色が最高の領域から始まる時は体現の色です。そして地球に触れると赤くなります。色が見える理由は二つです。真の高みへの熱望と、神々そして最高なる絶対神からの恩寵です。

インドにはカーリー、マハカーリーという女神がいます。私は神のこの母神の側面が本当に好きです。この母神が人間のバイタルの世界へ入っていくと、そこは感情と混乱で溢れており、母神の金色が赤くなります。なぜならカーリー母神は我々の人生にある不完全、限界、邪悪な力を全て破壊しているからです。霊的世界では純粋な黄金色に見えるものでも、バイタルの世界では赤く見えます。

真実の熱望者一人一人に、西洋で「守護天使」と呼んでいる存在がいます。神はいつでもおられるのですが、私たち一人一人にもそれぞれの守り神が一人あるいはそれ以上います。あなたの場合、光が見えたらそれは、天使があなたを守り導き道案内するために光を見せているのだと感じてください。

私は天使については何も語れません。天使の名前さえ知らないのですから。でもあなたがインドで転生していた時は、カーリー母神があなたの守り神でした。これまでにインドで転生したことのある人は皆、必ずインドの守護神がいます。インド人によると、唯一絶対神の存在とは別に、宇宙の神々と半神がいるとされています。「魂の数だけ神がいる」と言われています。インドの精神的観点から言うと、あなたの守護神はカーリー母神です。あなたの性質の中でスープリームの力の側面が優勢だからです。これはあなたが人類つまり神の創造物を愛さない、ということではありません。愛や喜びを捧げるのですが、人類への愛をダイナミックな力を通して表現します。愛は完全に純粋ですが、力を通して表現されるのです。愛を通して力を表現することもまた可能です。

質問: 瞑想中に見えるオーラについて話していただけませんか。

シュリ・チンモイ: 瞑想とオーラには何の関係もありません。人には誰でもオーラがあり、それが瞑想中に見えるかもしれません。しかし自分のオーラは集中している最中や、睡眠中でも見えることがあります。瞑想とオーラに直接のつながりはありませんが、瞑想中は完全に平和の中にいるため、自分のオーラが見えやすくなります。霊的な人ならあなたに自分のオーラが見えるようにできます。または自分でも瞑想中にできることなのですが、瞑想とオーラに直接のつながりはありません。

ある弟子が初めて私のところに来て目の前に立った時、私のオーラが見えたと思ったそうです。正直言うと、これは自分のスピリチュアル・マスター(魂の師)の中に自分自身のオーラが見えていたのです。私の意識の一部となったため、自分のオーラが私の体の中に反映されたのです。

オーラが見えても特に何の害もありません。シーカー(真実の探求者)は鼓舞され大きな喜びを得ます。しかしオーラを探し求めて時間を無駄にするのは愚かなことです。

質問: 約4年前この(シュリ・チンモイの)哲学に出会った頃、夢で天から天幕が降りてきて、中にはインド人の男の人がいました。その人の顔が見えて、手にはろうそくを持っていました。この夢はどういう意味でしょうか。自分が会うべき人ということでしょうか。それとも前世で何か関係があった人でしょうか?

シュリ・チンモイ: この霊的男性は、あなたと過去世で以前からつながりがある人です。インドでは、皆が神以外に誰か霊的存在と特別なつながりがあると信じられています。守護神と呼んでいます。あなたには複数の守護神がいて毎日の行動を見守っています。あなたからは守護神達が見えませんが、向こうはあなたを見守り導いています。あなたが見た霊的存在はその中の一人で、あなたの人生を助けている存在です。その存在の親切心から、あるいはあなたの意識が非常に高いところにあったため、内的領域で人間の姿であなたの前に現れたのです。

質問: お弟子さんの一人が瞑想中に貴方の過去世の顔の一つが見えたという話が出ました。どうして過去の肉体が見えるのですか。

シュリ・チンモイ: 写真を見ることで内的経験、内的ヴィジョンを得ることができます。その人自身の内側に何があるかによって違う経験をするのです。ある人が私の意識と一体化する時、今世の意識だけではなく、何世紀にも渡って常に大きくなり続けている意識と一つになります。意識が肉体の世界で具現化されると、その存在をより簡単に確信できます。これが私の肉体ですが、過去世では他の体を幾つも経ました。しかし奥深くにある魂は一つです。普通の人には私の魂は見えませんが、肉体は見えます。この弟子が私のことを見たとき、私のすべてに行き渡る内的意識を見るのは不可能でした。それで過去世の一つが見えたのです。私が違う名前、違う姿形を取る、ということを肉体の意識が納得するためです。この肉体の世界では、形のある存在はなんでも理解できます。「すべてに行き渡る意識」に決まった形は何もないのですが、認識する必要性がある場合、過去世が見えるように神がしてくださるのです。

誰かの魂が夢またはヴィジョンで見える時、現在知っている姿形で見える場合が非常に多いのですが、魂の中へ深く入っていくと、過去世からつながりのある人ならば、その人の前世の肉体が見えることもあります。それが今回起こったのです。

質問: 先生の目をまっすぐ見て先生も私の目をまっすぐ見ている時、先生の顔がピンボケになり、完全に消えてしまいます。それから先生の顔がまた現れ、消えてしまいます。これはどういうことでしょうか。

シュリ・チンモイ: あなたは私を見ながら、私の肉体を見ていると思っています。しかしあなたが見ているのは私の普遍の意識です。あなたは命そのものの色々違う形に接触しています。そして自分の意識に戻ってくると、私の顔に再び焦点が戻ります。私があなたの目を見てあなたの魂と話している時は、あなたは自分の魂の目を通して私のことを見ているのです。

質問: 瞑想中に、先生から祝福をいただいていると想像するのですが、この祝福は本物ですか。

シュリ・チンモイ: 本物です。瞑想中私が祝福していると感じるなら、この祝福は本当に現実のものです。しかしその時祝福しているのは私の肉体の存在ではなく内的存在です。内的存在は私と完全にひとつです。例えるなら、何がどこにあるか完全に把握している倉庫のようなものです。私は自分の内的存在の助けを得て弟子を祝福します。私があなたのことを祝福しているのが見えたら、この経験は全く本当のものです。私の肉体のマインドはその祝福が起こっているとは知らないかもしれませんが、内的存在は絶対にわかっています。一番大切な事は、あなたの人生で何が起こっているか私の内的存在が把握していることです。私の肉体の存在は私の周りで起こっていることしか見えません。しかし肉体の中にある私の微細な存在は今ニューヨーク、カナダ、他にもたくさんの場所にいます。あちこちへと出向き、知らせを持ってきてくれ、それはすべて記録されます。しかしもし何か非常に重要な、絶対緊急なことが起こっている場合、その微細な存在たちは私が話をしている最中であったとしてもその知らせを持ってきます。話を中断するよう請われ、何が起こったのか知らせてくれます。

質問: 先週の水曜の夜にここで感じた平和と内的歓喜は、イニシエーション(入門の儀)を受けたしるしでしょうか。

シュリ・チンモイ: 先週水曜日、実は誰のこともイニシエートするつもりはありませんでした。しかしあなたが私の前に立った時、あなたの魂はすぐに私がどんな立場の存在か認識し、二歳の子供のように私の膝に自分自身を投げ出し、スープリームからの歓喜、平和、愛、力の祝福を全て受けました。私は無知と不純でいっぱいの内的受け皿を空にし、代わりに平和、歓喜、純粋で満たしました。これは形式に則ったイニシエーションではないとはいえ、そうですね、あの晩あなたはイニシエーション(入門の儀)を受けたといえます。

質問: 先生にお会いした夜、とても劇的な経験をしました。瞑想中先生が私のところに来られて、手の上に花を置きました。私の手は全然動いていないのに、ものすごい力で引っ張られるような感じがしました。私は先生を見つめながら、「何のために手を引っ張っているのだろう。」と考えていました。そして先生に見つめられた時、まるで内的存在がぐるぐると回り、頭頂から破裂するような感覚でした。これは何を意味するのか教えていただけますか。

シュリ・チンモイ: あなたの外的世界が粉々に砕け散って内的世界に入っていきました。そこであなたは私を受け入れただけでなく、私の霊的達成と悟りを感じて悟りました。あなたの混乱の外的世界が、ついに霊的に無限の内的世界に明け渡したのです。これは非常に美しく高い経験です。

質問: 初めてお会いした後帰宅すると、夢のような世界へと入っていき、そこで存在するのはただ先生だけでした。そして私の体全体が雨の雫に分解してしまいました。これはどういう意味でしょうか。

シュリ・チンモイ: あなたの存在全体、つまり肉体・バイタル・思考・霊的な存在全体が私の無限の慈悲の光で溢れました。あなたが見た雨は恩寵、慈悲でした。あなたが感じた内的感動は、あの日に私が心からあなたを受け入れ、すぐにあなたを認めた、いうことです。その夢は私があなたのスピリチュアルライフを完全に受け入れたことを意味しています。私には弟子が数百人います。中には私の良し悪しを判断しようとする者、私の精神性の深みを図ろうというおかしなことをする者もいます。自分を満足させてくれるか様子を見ようと待っている者もいます。あなたがしたように私をすぐに受け入れるのは非常に稀なことです。

私がすること

私がすること:
より高い生命の
種を蒔く
より低い生命の
木を枯らす

他にも私がすること:
より輝く人生の
王国を建てる
より暗い魂の
住処を壊す

このページの翻訳: Italian
この本の巻はすべて cite-key を使って引用できます mgs-2