師の助言~道を選ぶことについて

あるところに魂の師がいた。この師は何百人という弟子がいるにもかかわらず、自分の教え子一人一人に特別の注意を払い、気遣いと祝福と導きを与えたいと願っていた。一週間に何度も集まりを開き、時には一日に二回することもあった。こうして、新しいシーカーが何人自分のスピリチュアルな家族に迎えられようと、一つ一つの集まりは小さく、親密なものであるようにしたのだ。

師は週に一、二回、ビジターと呼ばれる体験希望者が来て集まりに参加するのを許可していた。そしてその中には、あとでこの道を歩むことにした人も幾人かいた。ある日集まりの後で、男子三名と女子一名、計四名のビジターが師のところへ歩み寄ってきた。男子の一人は頭を下げると、「先生、私を弟子にして下さいますか。ここ一ヶ月、毎週ここに通ってきましたが、これが私の行くべき道だとやっと決心がつきました。」と言った。

師はそのシーカーに何という名前なのか尋ね、彼の外的生活について幾つか質問をすると、静寂の中で彼の魂に集中した。そして最後にこう言った。「あなたを喜んで弟子として受け入れましょう。心からあなたを受け入れます。この集まりに規則正しく、献身的に通うように。これがあなたの道だというのがはっきり見えます。」

新しい弟子になったこの人は、師に受け入れてもらえたことが非常に嬉しく感謝した。

すると残りの男子のうちの一人が言った。「先生、私もこの一ヶ月ここに通っていました。でも弟子になるかどうか決めるのに四、五回しか来ることができないのですね。初めて知りました。これが自分の道かもしれないけれど、今すぐに弟子にはなりたくないのです。内的に葛藤したり、生半可な打ち込み方はしたくないからです。完全に確信を持ってから決めたいのです。」

師は答えた。「あなたの誠実なところを深く尊敬します。あいにくこのアシュラム(ヨーガなど精神的コミュニティーを指すインドの言葉)ではこのような決まりになっていますが、アシュラムの外で行われる毎週水曜夜の集まりに来るのは歓迎です。この集まりに八ヶ月とか九ヶ月、時には一年くらい通っている人はたくさんいます。この人たちはまだ決心をしていないし、私たちの方も決心するようには頼んでいません。もちろん、私はアシュラムの中にいようと外にいようと同じ人間、同じ魂の師なのだから、私があなたの師なのか決める機会はこれからも同じようにあります。」

「先生、水曜日の集まりに来てもいいと聞いて嬉しく思います。これからも是非通って来て、先生と瞑想したいと思います。でも、そもそもこんな堅苦しい決まりがあるのは何故か聞かせていただけますか。お尋ねするのをお許しください。内的生活について、なぜこういう外的制限があるべきなのですか。」

「それは、もしこのような決まりや規則があれば、グループとしてもっと効果的に調和がとれるからです。どんなグループにも円滑な運営のための決まりや規則があります。そしてルールが幾つかあれば、精神的なコミュニティーで弟子の生活をより規律あるものにしやすくなるのです。」

師は説明を続けた。「それに、精神的な理由もあります。あなたがもし道を選びたいのなら、一人の師のところに四回通えば、この道が自分のためのものなのか決めるのに充分すぎるくらいです。私にはそれがはっきり見えます。もし私があなたの師であるべきならば、こんなに何回も私のところに会いにきたら、絶対に何かを感じるはずです。私が魂の師だからあなたが何か感じて当然だと言っているわけではありません。ただ、私があなたの師になることになっているなら、弟子になりたいと勇気やインスピレーションを受け、私から何かを絶対に感じるはずだと言っているのです。でも、今言ったように、間違いを犯さないよう用心して注意深く決めたいのでもっと時間がかかるというのなら、さっきも言ったように、もう一つの集まりにずっと来るのは歓迎です。自分の好きなだけ時間をかけるといいでしょう。半年くらいして、これは自分の道ではないと感じたら、他の道を試せばいいのです。

私はあなたにとって精神的な兄だと思ったらいい。私はあなたよりスピリチュアルな人生で少々上級者なので、両方の父である神のところへあなたを連れていくのが私の役目です。しかし私自身が目的地ではありません。もし他にも誰か、あなたより少し精神的に進んでいる人がいたら、当然その人もあなたを父なる神のところへ連れていく立場にあるでしょう。私たち魂の師というのは、メッセージの伝達役のようなものなので、ただシーカーを父なる神のところへ連れていくだけです。この道を選ぼうが、他の道を選ぼうが、神を悟るために同じ機会が与えられます。自分の好きなだけ時間をかけたいのなら、そうするといいでしょう。でも悲しがったり心を乱したりはしないように。あの外での集まりでも、また実際どの集まりであろうと、どこにいようと、私のハートの扉は大きく開かれているのですから。」

この二人目のシーカーは頭を下げた。「先生、先生の心の広さと深い智恵に深く感動しています。この集まりに必ず通いつづけます。ありがとうございます。」

今度は三番目の男子が師に近づいた。「先生、私の人生は混乱状態にあります。自分が誠実かどうか、どうやって判断できるのですか。先生、何かアドバイスを下さい。」

「あなたが聞きたいことは一つではなく二つあるように見受けられます。一つはあなたが混乱していることに関して。もう一つはあなたの誠実さに関すること。どうして混乱しているのですか。どういうわけで自分が混乱していると感じるのでしょうか。この道を受け入れることと、あなた自身の人生、あなた自身のマインドが混乱しているというのは全く別の問題です。もしこの道を受け入れなくても幸せかどうか、自分自身に聞いてみたらいいのです。もしそれでも幸せで、そしてこの道を選ぶか否かについて混乱はしていないというのなら、あなたが言っている混乱は、スピリチュアルな人生を受け入れるかどうかとは全く別問題でしょう。私たちを受け入れるか否かはあなた次第です。この道は真実を見る一つのやり方で、あなたが誠実であれば、これが自分のための道かどうかわかるでしょう。」

「先生、でもどうやって自分が誠実かどうか判断するのですか。」

「自分が誠実かどうか判断するのは簡単です。誠実かどうかは完全に、あなたのハートの大きさと寛大さにかかっています。誠実であるためにスピリチュアルである必要はありません。自分を二人の人間だと思うといいでしょう。一人目は『バイタルとマインドと身体』で無知の海で溺れそうになっている。もう一人の『ハートと魂』は無知の海を泳いで渡っている。『バイタルとマインドと身体』を『ハートと魂』から分けて考えるのです。あなたは今何をしたらよいのでしょう。もし『ハートと魂』に留まって、溺れている方と自分を分けて考えることができれば、すぐに大きな『ハートと魂』の未来のビジョンがやってきて、あなたの中の溺れそうな人を助けてくれます。でもあなた自身、『身体とバイタルとマインド』を救うために『ハートと魂』の道をたどる気があるのかどうか決めないといけません。もし身体が正しいメッセージをくれている、バイタルが正しいメッセージをくれている、マインドが正しいメッセージをくれていると感じるのなら、スピリチュアルな人生を本当に必要だとは思わないでしょう。でももし、例えば自分のマインドが溺れかけていると感じるのなら、ハートのところへ行かないといけません。ハートはマインドに光をあてることができる立場にあるからです。スピリチュアルな人生に入ると、知的なマインドは不幸な結果を招く障害物でしかなくなります。マインド自体は悪くないのですが、マインドはハートの光で照らされないといけないのです。そしてハートの光は他でもない魂から来ています。」

三番目のシーカーは、「先生、先生のアドバイスに従います。私の混乱の問題も、誠実さの問題もすぐに解決されると思います。『ハートと魂』と一つになるようにしてみます。」と言った。

さて、今度は最後の女子のビジターが師に言った。「私は何年も瞑想して内的生活を送っているのですが、自分の師を見つけようと思ったのはこれが初めてです。先生にはとても親近感を感じるのですが、今決めてしまうのは早すぎますか。」

「お嬢さん、ハートと魂に入っていけばいいのです。そしてこれが自分の道だと感じるならば、絶対にここに来た方がいい。もしこれは自分の道ではないと感じるなら、他のところへ行ったらいい。でも私には一つお願いがあります。あなたに対してだけでなく、まだどの魂の師も受け入れていない人全員へのお願いです。できるだけ早く師を見つけてほしい。あなたが誠実だから、延ばし延ばしにしないように思って私は言っているのです。神の時間を待たなくてはと言うかもしれないけど、もう神の時間は来ているのです。だからこそ、ここにも来たし他のところにも行ってみようと考えているのです。非常にはっきりしない人というのがいます。欲しいものが最初に行った店で見つかったのに、他の店へ行けばもっと良いものが買えるかもしれないと思ってしまうのです。あるものを求めて他の店を二十軒まわって探しに探した末、一軒目の店に戻ってきてしまうのはよくあることです。

でも賢明で、本当におなかがすいていて、最初の店でその飢えを満たしてくれる果物を見つけたら、そこで果物を口にし、何軒も他の店を回ろうなんて思わないものです。もちろんそこで出された食べ物が気に入らなかったら、他の場所に行っても全く構わない。ところがこういう人たちもいます。自分たちの信じる『人間的な知恵』を使うのです。これはスピリチュアルな観点からすれば全く正当性のないものです。このような知恵の本質は、『他も見てみよう。』ということです。ところが問題は、時間は非常に貴重なのです。店をたくさんまわって全部のものを見て回ったら、そうして時間を無駄にしている間に誰か他の人が来て、元々欲しかった果物を買ってしまうかもしれません。それに、店主は二十四時間店を開けておいてくれるわけではありません。必要なものを買わず長い間ただ眺めているだけだったら、もう閉店の時間だから他の店へ行ってくれと言われてしまうかもしれません。そうしたら、満足できず満たされないのは自分、ということになります。

というわけで、自分の奥深くに行った後で、もしハートと魂が『これは自分の道ではない』と言うのなら勇気を振りしぼって他の師を探すことです。でもこれが自分の道だと感じるなら、マインドが前に出てきて猜疑心をもたげるのを許してはなりません。 マインドはハートに疑問を投げかけることで誠実に用心深く振舞っているだけだ、とあなたは思うかもしれないけれど、マインドはただ自信のなさを顕わにしているだけなのです。マインドはどうしようもなく自信がなく不安定なもので、だからいつも混乱を引き起こしています。ですからハートと魂だけを信じることです。もし魂がハートを通じてあなたに『これが私の道だ』とメッセージを伝えてきたら、この道を受け入れてその決断を貫き通すのです。

つまり、常にしっかり目を開けた状態でいて、時間を無駄にしないのが一番だということです。学ばねばならないのは三科目あります。一つ目は神を悟るということ。二つ目は神を顕わすということ。そして三つ目は神を体現すること。最初の科目でさえまだろくに学んでいないのに、全三科目を終わらせなければならないのです。一つ一つの科目が本当に長い時間かかります。何世紀かかるのか、何人生かかるのか、神のみぞ知る、です。だから早く始めるに越したことはありません。」

四番目のシーカーは頭を下げると、「先生、一秒たりとも無駄にしません。自分の奥深くに行き、自分の道を見つけます。先生、先生は私たちの真の精神的な兄です。私たちの成長だけ気遣ってくださいます。無条件の御指導に深く感動しています。教えてくださったように、私たちそれぞれ、やっていきます。」と言い、四人は師に向かって感謝をこめてお辞儀をすると家路についた。

Sri Chinmoy, 師と弟子, Agni Press, 1985