シュリ・オーロビンド アシュラム時代には、20年のうち2度だけ、こっそり紅茶を飲んだ。1回目はおいしくなかった。2回目は砂糖を多めに頼んだのに断られた。それで私の紅茶体験はおしまいになった。
ところがアメリカに来ると、紅茶のこともコーヒーのこともよく知ることになった。なんとエスプレッソにまで行ってしまったのだから!少々熱が出た時は紅茶がとてもよく効くとインドの医者が言うのを読んだし、耳にもした。医学的効用があるというので紅茶を飲み始めたのだ。ああ、まったく、悪い癖がついてしまうとやめるのが本当に難しい。それで1日大体4、5杯、最高では8杯も飲んだ。悪い癖、悪い癖だ!
紅茶を飲むと元気になり、エネルギーをもらえると言われている。神からの強さが隠れていると信じる人がたくさんいるのだ。本当かどうかは神のみぞ知る、だ!
```
インスタント・コーヒーのような「インスタント・悟り」を
見つけ出そうとするのはよそうハートの誠実な内的叫びを
ただ前面に持ってくるようにしよう ```私の愚かぶりはまだ終わらならなかった! スチュワーデスに文句を言ったのだ。もちろん彼女には、間違ったことをしたのは私の方だとわかっていただろうが、何も言わなかった。そのカップを下げると、お湯を入れた新しいカップを持ってきた。新しいティーバッグと一緒に。ティーバッグをお湯に入れると、お茶が出るまで持っていてくれ、それからその場を離れた。
スチュワーデスが紅茶を入れているのを見て、自分のした間違いに気づいた。量の話といえば、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは1日に30杯かそれ以上紅茶を飲んでいたという。ポットいっぱいに紅茶を入れておいてもらい、それを1杯、また1杯と飲んだということだ。子どもの時に飲み始めたらしい。後に紅茶もコーヒーも飲むようになったが、特に紅茶を好んでいた。
そしてヴィヴェーカーナンダはアメリカにやってくると、アイスクリームというものを発見した。我々がクルフィと呼んでいるものだが、ヴィヴェーカーナンダはアイスクリームをどんなに好み、熱愛したことか! 冬に自分を慕ってくれる者たちとレストランに行き、まずアイスクリームを注文したという。レストランのマネージャーは、「この時期にですか?」と言ったという。
そしてヴィヴェーカーナンダはメインが来る前にアイスクリームを欲しがり、「アイスクリームはデザートですが。」と言われた。
「いや、好きだからいいんだ。」というのがヴィヴェーカーナンダの答え。ヴィヴェーカーナンダが好んだので、みんなが食事の前にアイスクリームを食べることになった。愛とはそういうものだ。そこで腰をかけた。前に足を伸ばせて随分快適だった。本を読み、コーヒーを飲んで時間が過ぎるのを待っていた。すると姉さんが自分の右側にいるのが見えた。とてもはっきりと見えていた。内的世界で私とおしゃべりしていた。すると突然、アハナ姉さんも現れた。アハナ姉さんはシュリ・オーロビンドが他界する数ヶ月前、1950年の7月にこの世を去っている。シュリ・オーロビンドはその年の12月に体を離れた。
子どもの時に歌を教えてくれたのがアハナ姉さんで、姉さんについてはいつもこの有名な話をする。ある時私は家族にとても腹を立てて夕ご飯を食べるのを拒否していた。ベッドに入って寝たふりをした。するとアハナ姉さんが入ってきて、「歌がすごくうまい子だけが、寝ている時も歌えるのよ。」と言った。私は自分の歌がすごくうまいと証明したくて歌い始めた。それでまんまとつかまってしまった! アハナ姉さんは私が夕ご飯を食べるよう担いで行った。アハナ姉さんが亡くなったのは24歳か25歳の時。そして今まだ魂の世界にいる。
とにかく、この姉さんが青天のへきれきで現れて、リリー姉さんが話している間中、私の頭を本当に愛情をこめてさすり始めた。1つの魂が私に話しかけ、もう1つの魂はマッサージをしてくれている。想像できるかな?幻覚だろうと言われてしまえばそれまでだが。
どうしてアハナ姉さんが頭をさすってくれたかというと、それより数日前に乗っていた飛行機がインドに着陸した時、頭上の荷台からビデオテープが2本、頭に落ちてきた。アハナ姉さんは内的にこの様子を見ていたそうだ。「本当にショックだったわ!」それでビデオテープがあたったところを本当に愛情こめてさすってくれたのだ。おしゃべりしながら、姉さんは子どもの頃起こった出来事をいろいろ話してくれていた。
それからアハナ姉さんは私の目の前に立つと真剣に懇願し始めた。「マダル、お願いだから、もう紅茶もコーヒーも飲まないでちょうだい。2度と飲まないで! これまであなたにお願いをしたことは1度もなかったわよね。私のたった1つのお願いよ。もう決して2度と紅茶もコーヒーも口にしないでちょうだい! 体に悪いものよ。」
私は姉さんを見ると「もう姉さんはこちらの生きる地にはいないのだから、言うことをきくよ。そんなに頼んでるんだ。もう二度と紅茶もコーヒーも口にしないよ。でもね、もし姉さんがまだ地球にいて同じ頼みごとをしたら、反対に今までの倍の量飲むことにしていたと思うよ!」と言った。
姉さんたちの言うことは決してきかなかったものだ! 何を言われようと、決してその願いを聞いてあげることはなかった。それどころか私はそれと真逆のことをしたのだ!
実に鮮明なこの経験をしてから、私は聖人になった! 紅茶とコーヒー断ちをしたのだ。そしてその約束は今でも守り続けている。アハナ姉さんになんて素直に従っていることか! 少しだけ紅茶をどうぞ、と言われたことが何度もあったが、「もう2度と紅茶もコーヒーも口にしないことにしているんです。」と断ってきた。約束は真面目に守らないと。約束は約束だから。まじめに約束して、特にその相手が愛する者だったら、その約束は守らないといけない。私は教授に、心配いらない、と言ってあげた。「そのとおり、紅茶は回りの遅い毒です。でもその解毒剤である鋭いアスピレーションを貴方は豊富に持ち合わせている。そのアスピレーションが助けてくれますよ。」
私の大予言はあたったらしい。その教授と紅茶の友情関係はもう続いてはいない。
TCE 8. 1973年↩
私の飛行機はチューリヒに朝11時半に到着し、ザトペックの飛行機は12時に着くことになっていた。私はカイラーシュとアバリタと一緒に撮影係を2人連れて、彼の飛行機が着くことになっているゲートに行き、待った。飛行機は時間通りに着いたが、かばんに何か問題があるようだった。ザトペックのことが見えたのでみんなわくわくしていたが、彼の方はかばんが見つからないので外に出てきて我々に挨拶することができない。
ついにやっとザトペックが現れたので、彼の方へ歩み寄った。向こうも私に気づいた。握手したかったのだが、彼はすぐにインド式に手を合わせ、「ナマスカー」と挨拶してくれた。そしてヒンズー語で話しかけてきた。ヒンズー語の言葉をいくつか使って。チャイはいかがですか、と私に聞いてきたのだ。それからこう聞いてきた。
「どうしてヒンズー語は簡単なのに、ウルドゥー語は学ぶことができなかったんでしょう?」奥さんと2人、インドに4ヶ月滞在したのだ。こんな風にして、いろいろなことをずっとしゃべっていた。それから2人は体を休めるためホテルへと向かった。
TCE 9. 1980年6月↩
そのレースが始まる5分前、我らがリムジン・ドライバーのパヴァカがやってきて、「グル、紅茶かコーヒー召し上がりますか。」と聞いてきた。
当時紅茶もコーヒーもめったに飲まなかったので、「何もいらない。」と答えた。
「でもグル、コーヒーは飲まれた方がいいですよ。」と言いパヴァカがコーヒーを1杯持ってきてくれ、お陰でレースの始めの頃力がでた。最初の1マイルは6分51秒で走ったのだ! しばらくするとコーヒーの効き目がなくなった。それでも最後の1マイルのタイムは7分9秒だった。
レース全体のタイムは51分18秒。今でもそれが自己最高記録だ。
TCE 11. 1981年9月20日↩
バミューダに着くと入国審査の職員が、これまでバミューダに何度来たことがあるか聞いてきた。
「4回です。」
「ここが気に入っているのですね。」
「それはもう。」
「じゃあ、友だちもいるでしょう。」
「いえ、友だちはいませんが、好い人たちとの出会いはあったし、ここが気に入っています。」
職員の男は私の所持品を入念にチェックしたが、「友だち」のためのお土産は見つからなかったようだ。
TCE 12. 1982年1月↩
「さあ、わからないので何でもいいですよ。」
「お客様おいくつですか。」
「50ですが。」
「おじいちゃん、ロシアン・ドレッシングにしましょう。ロシアに連れて行ってあげましょう。」
「ロシアか。行けたらどんなにいいだろう!」こうやってジョークを交わした。
30分でお届けに上がります、と女性スタッフは言った。1時間経ったところで電話をし、「注文をキャンセルしてください。もう随分遅いし。」と言ったのだが、今持って行ったところだからと言われた。やっと食事がきたが、あいにくまずかった。
請求書を渡されたのだが、見ずにサインした。朝になって17ドル50セント(約1900円)も取られたと気づいた! なぜ? サービス料金がかかったからだ。
TCE 13. 1982年1月↩
ある競歩のレースで、ベンガル人2人がそれぞれ1位と2位になった。2位がゴールしたのは1位から少なくとも3分は経っていた。ところが審判は間違えて、2位の方を1位だとアナウンスした。
アナウンスが流れると、皆笑い始めた。審判は、自分たちがそんな間違いをするはずはないと怒った。2位の選手は審判のところに行き、「自分のほうがずっと遅かったですよ。」とまで言った。
すると審判の1人は、「そんなことを言っても駄目ですよ。」と応えた。
それで実際2位だった方は1位だった方のところへ行って肩を抱き、「どうしようもないな?」と言った。
すると1位だった方は、「コーヒーでも飲みにいくか。」と言った。
この2人の妻たちは笑いこけていた。幸運なことにこの夫婦は仲のよい友人同士だった。それで4人そろってコーヒーを飲みに行った。
TCE 14. 1983年3月31日↩
12枚あるふりをするのは簡単だったのにも関わらず、だ。誰も数える人はいないでしょう? でも誠実な人というのはいるものだ。そういう人たちのおかげで私たち皆まだ生きている。
8ヶ月か9ヶ月前、そのパン屋で紅茶を飲んだ。店員はまだそれを覚えていて、「紅茶はよろしいんですか?」といつも聞いてくる。
ここは火事になってしまうので有名な店舗だ。以前は別の店主だった。私と握手して、何でも半額にしてくれたものだ。その品が何であろうと、半額にしてくれた。
TCE 15. 1983年5月12日↩
コーヒーにミルクを入れて、と注文したが、通じずにミルクなしのコーヒーが来た。それで弟子2人は外に出て、店で牛乳を買ってきた。2人はオーナーに「レチェ(牛乳)」と言ったのだが、発音がひどかった。オーナーは2人が牛乳を手にレストランに戻ってきたのを見ると、「ノーグッド!」と言い、温めたミルクをコーヒー用に持ってきてくれた。
レストランの音楽のうるさかったことといったら!「音を小さくしてもらえませんか?」と頼むと、従業員が音を下げてくれた。オーナーは食事はどうかと聞きに我々のテーブルに2回か3回やって来た。それから私のことをずっと見つめていた。興味津々だった。彼も私たちと話せないし、私たちも彼と話せない。でも私たちが来て実にうれしそうだった。
TCE 16. 1984年1月8日↩
「スタジアムなんてどうでもいい! コーヒーでも飲みに行け!」と言われた。
また別の日に歩道を歩いていると、ただただ不神聖な男が3人私の方にやって来たので、避けて道路に飛び降りた。するとその1人が大声で、「ジーザス!」10と言った。
心の中でその男に、「とても仲のいい友人を呼び起こしてくれてありがとう!」と言った。
するとヴィジャリが入ってきたので、長いことしゃべった。彼女が瞑想講座をしに行っているカリブ海のトリニダードやトバゴや他の国の話だ。
ホテルに歩いて戻る途中、またすべてが真っ白になった。熱と痛みで死にそうで、ものを見るのが一苦労だった。
アスピレーションの木を登るのは非常に大変なことだが、熱の木には簡単に登れる。アスピレーションの炎の木は登るのが大変だ。熱の火の木は簡単だ。
TCE 18. 1985年12月24日↩
到着すると、ジム・スミスの奥さんのブレンダは私と握手したがらなかった。オーブンを使って料理していたから手が汚くて、と言った。最後には、「左手で握手してもいいかしら?」と聞いてきた。
ブレンダはとても素朴で、優しい心の持ち主だ。軽食をたくさん用意してくれ、紅茶も4、5種類あった。私はもう紅茶は飲まないのでココアを頼んだのだが、用意してなかったため、ひどくがっかりしていた。それでオレンジジュースをいただいた。
オレンジジュースの2杯目を飲んだ後、床にコップを置いた。それから、話している最中まちがってコップを蹴飛ばしてしまった。幸いなことにジュースはもう飲んだ後だった。何度も謝ったが、ブレンダは、「あら、気にしないでください。中は空だったんだし。」と言った。
おいとまする前に、ブレンダは私たち1人1人におみやげを持たせてくれた。家畜の羊の毛で作ったネクタイかマフラーだ。私には茶と白の綺麗なシープスキンをくれ、リフティングをする時足元に敷いて下さい、と言ってくれた。
TCE 19. 1986年11月16日↩
最初司教は私と1人で話したい、だれも付き添いは入ってきてほしくない、と言った。でも気を変えて、弟子全員を中に入れてくれた。
司教は、用意した紅茶、コーヒー、パンとチーズをどうぞ召し上がってください、と何度も勧めていた。家族の集まりのようだった。
私がなぜ紅茶もコーヒーも飲まないのか理解できない様子だったので、長い説明が必要だった。それから私がベジタリアンだと聞くと、質問の連発だった。
司教は祈りについては何でも知っていたが、瞑想が何かを知らなかった。思考がない状態で瞑想できるなんて想像できないのだった。それで、祈りと瞑想について長い話をした。
インドにいた頃は、6時間から7時間連続して瞑想していたことを話した。司教は私の言ったことを信じてくれたが、自分でマインドを静かにしておくのは数分以上は無理だと言った。
最後に、一緒に1分か2分瞑想し、頭を垂れて祈った。それから司教は立ち上がると、「私は86歳なんですよ!」と言い、私の肩に手を置き、最高に愛情深く肩をぎゅっとしてくれた。本当に心優しく親切で、愛情いっぱい、愛と智恵でいっぱいの司教だった。
TCE 20. 1988年3月19日↩
シュリ・オーロビンド アシュラムで紅茶を飲んだのは2回だけだ。チタゴンでは一回も飲まなかった。父は紅茶もコーヒーも許してくれなかったから。
TCE 21. 1991年12月14日↩
Deshe deshe kalatrani
Deshe deshe cha bandhabahTantu desha na pashyami
Yatra brata sahodara意味は、「いずこの国にも妻はいる。いずこの国にも友はいる。しかしラクシュマーナのような弟は世界中どこを探しても他にいない。」
シュリ・オーロビンド アシュラムで、ノリニダとアムリタダはそんな感じだった。アムリタダがノリニダの弟のようだった。ノリニダがあちらへ行けば、アムリタダもあちらに行った。この目でちゃんと見ていた。ノリニダはアシュラムの秘書官であり、アムリタダは管理者だった。アムリタダはノリニダに非を見つけることはなかった。もしノリニダが、「これは天国だ。」と言ったら、アムリタダもそれを天国だと言った。もしノリニダが、「これは地獄だ。」と言ったら、アムリタダも同じようにそれを地獄だと言った。アムリタダは個性を保つということを全くしなかった。
さっきのラーマとラクシュマーナの話は何も1万年前にだけ起こったことではない。今世紀にも、この秘書官と管理者はこの話が真実だということを証明してくれた。管理者は秘書官の後をどこへでも、ただついて回った。そしてアムリタダがノリニダと議論することは決してなかった。たまに一緒に冗談を言い合うぐらいだった。私は中で仕事をしていて、二人は紅茶を飲んでいたものだ。他の人達もそこで仕事をしていた。
時々2人が冗談を言い合うのが聞こえた。ある日、ノリニダは自分の健康状態は完璧だと自慢していた。唯一の問題は背がこれ以上伸びないことだ、と。65歳の時の話だ。そこでアムリタダが言った。「簡単だよ。爪先立ちすれば、すぐ背が伸びる!」
アムリタダは、ノリニダに対してなんて忠実で、素直で、自分を捧げていたことか! ノリニダが何か言えば、絶対にそれを受け入れた。こんなにお互いに対して心から明け渡し、心から素直な2人を他に見たことはないし、この人生で他に出会うこともないだろう。
TCE 22. 1994年5月12日↩
日に1回か2回、あるレストランに行き、イドゥリー、マサラドーサ、サンバールを食べ、紅茶を飲んだ。ある日、人力車でこのレストランに食べに行った。レストランのすぐ前で降ろされた。10mもなかったろう。待っていてくれるよう俥夫に言った。同じ場所に人力車を停めている俥夫がたくさんいた。
それから中に入り、ローズミルクとマサラドーサと紅茶を注文した。出てくるのは早かった。3分か4分で料理が来て、その10分後には食べ終わっていた。おいしくて幸せだった。
人力車に戻ると、俥夫が不運な出来事があったと話してくれた。食事をしにその場をはなれ、戻ってみると誰かに座席のクッションを盗られていた。周りの人は、その俥夫が駐車違反の場所に人力車を停めたので、警察が来てクッションを取り上げたのだと言った。
人力車の椅子に目をやると、でこぼこの固い表面になっていた。「クッションがないんじゃ、もう座れない。今まで乗った分は払うから、他の人力車を見つけるよ。」
「いや、だめだ。一緒に警察に行って、お客さんを待っていたんだって証言してくれないと、クッションを返してもらえない。」
どうしたものか。一緒に警察に行ってくれないと、座席のクッションが返してもらえないと懇願している。
警察署は帰り道とは違う方向だった。どこにあるのか、神のみぞ知る、だ! 俥夫は引っ張って進み続けたのだが、固い座席なので悪い背中に響いて拷問だった。腰をかけないようにしてみたりもした。痛くて4、5センチくらい木の座席から腰を浮かしていたのだ。それに加えて、3箇所から釘も出ていた! 普通はクッションがみんな覆ってくれているのだ。こうやって、旅路を「楽しんで」いた。
警察がクッションを持っていってしまったのだから、警察が言う金額をいくらでもいいから俥夫に渡そうと決めた。警察署に着き、クッションを返してくれるよう頼んだ。警察は俥夫をどなりつけ、侮辱した。「ここまでおまえのクッションを持ってくるほどこっちは暇じゃないんだよ!」それで私が警察署長と話をした。すると、「いえ、こちらではそういうことはしませんよ。」と言われた。
周りの人が警察が持っていったと言っていたが、そうじゃなかったのだ。それで、俥夫に懇願した。「お願いだから、家に連れて帰ってくれ。」
それからまた15分、人力車に揺られた。木と釘ばかりで、ちゃんと座れなかった。クッションを取り戻すことはできなかった。ようやく家に着くと、俥夫に30ルピーではなく50ルピー渡した。「いつクッションを取り戻せるのか、神のみぞ知る、だ。」と独りごちた。
TCE 23. 1995年9月↩
401便に乗るために、乗客がたくさん集まってきていた。夜11時に出発した。11時半頃またカウンターに行った。「今度は教えてください。もう1便の方は、何時に到着するのですか。」
「もう全部おしまいですよ。11時にボンベイ行きの飛行機が出ました。401便です。便名がボンベイで101便に変わるんですよ。」
その日の責任者に話しに行った。彼女は自分たちの責任ではないという姿勢をくずさなかった。そして、「明朝、ボンベイ発ロンドン行きのフライトがもう一便、7時15分に出ます。でもそれには乗れません。ボンベイに時間までに着けませんから。ここからロンドンへの直行便に席をお取りします。明日の朝また来て下さい。7時半発です。」
なんてことだ、空港でもう8時間も待たなきゃいけない。時おり眠気覚ましに紅茶を買いに行った。随分濃い紅茶だった。もう本もみんな読み終わってしまった。「新聞でも2、3紙買うか。フライトは7時半だから、4時半には行っていた方がいいな。」と独り言を言った。実際は、もうそこに来ていて、カウンターのすぐ近くで読んだり動き回ったりしていた。列の一番前に並びたかったのだ。
4時半にはカウンターに並んでいた。5時ごろもう1人やって来たのだが、チケットのチェック係と友だちだったようで、この人が先頭になった。それから、空港税を払わなければならなかった。空港税徴収係の男はぐっすり寝入っていた。ずっとノックし続けたら、やっとブースを開けてくれた。
払う段になったら、インド貨幣が足りないということに気づいた。300ルピー必要だったのだが、手元にあったのは米ドルの100ドル札だけで「頭がおかしいんじゃないか? こんなに払ってどうするんだ?」と言われた。
「ルピーがないんだ。」と答え、バッグの中を探して探して、50ドル札を見つけたが、それでも多すぎた。また探して20ドル札を見つけて、やっとお釣りをもらえた。
空港税を払うと、「さて、あとどのくらいの時間か神のみぞ知るだが、目を開けていなきゃならない。また紅茶を買いに行ってこよう。」と独り言を言った。
ところが今度は紅茶売りの男がぐっすり寝入っていた! 邪魔したくなかったので、搭乗のアナウンスが流れるまで待って飛行機に乗り込んだ。
TCE 24. 1995年9月↩
この神聖な月に、イスラム教徒はアッラーの神の恵みを下ろしてくる。1年を通してアッラーに祈るのだが、特にこの月は、アッラーからその子どもたちに、限りない恵みと慈悲と愛が与えられる。
ここでは外的な飢えと内的なご馳走は一緒に起こる。外的にはイスラム教徒は断食するが、内的にはアッラーが限りない愛情と喜びと誇りを与えてくれる。これが内的なご馳走だ。
私は国王に、自分はヒンズー教徒だがラマダーンに深い尊敬の念を持っており、愛と崇拝と献身の心でアッラーに対してこのように真剣に犠牲を払う人すべてを、実に立派だと思っていると伝えた。
国王陛下はとても感動していた。この断食の月には、紅茶1杯でさえおもてなしできないことを非常に申し訳なく思う、と言ってくださった。
「私たちにとっては、陛下の祝福が最も重要で、最も美味で、最も意義深いご馳走です。」
そう言うと、国王はとても、とても嬉しそうだった。
```
シーカーでない人は起きているためにコーヒーを飲む
シーカーは起きているために意識の光を飲む
```TCE 25. 1998年12月30日↩
アルナーチャラに着いて最初に挨拶をしてくれたのは孔雀だった。本当に美しかったが、鳴き声となると別だ! 神はどうして、あんなに美しい姿の孔雀に、あんな不快な鳴き声を与えたのだろうか?
本館の前でいい写真が撮れた。ビデオカメラも使った。アシュラム全体が平和、平和、平和だった。それから靴を脱いで瞑想室本館に入った。ラマナ・マハルシの写真が6枚か7枚と、大きな彫像が立っていた。この彫像は本当に神聖だった。そこにいた人はその像の周りを回っていたが、私はといえば、膝のせいで1度しか回れなかった。
瞑想するため腰を下ろした。瞑想室の中の雰囲気は本当に崇高だった。信奉者たちが頭を下げ、像の前にひれ伏していた。
それから、ラマナ・マハルシがアルナーチャラに来た時実際に瞑想したという洞窟に行ってみたいと思った。15年前にそこを訪れた時は、洞窟を眺め、非常によい経験をした。1956年と1958年にもそこへ歩いていった。でも今回はそれは無理だった。歩いて45分かかると言われたのだが、私は数歩以上歩けなかった。
タクシーの運転手に言われた。「間違っているかもしれませんよ。お客さんは英語をしゃべるでしょう。アシュラムの所長も英語ができますよ。聞きに行ってみましょうよ。」
タクシーの運転手がそう頼むので、所長室に行って、「失礼します。」と言うと、所長は不在だったが、別の男性が中にいて、「どうぞお入りください。」と言ってくれた。
中に入ると、本館から洞窟までどのぐらいかかるか聞いた。「45分です。こちらに来られたのは初めてですか?」
「いえ、4度目です。1956年に初めて訪れて、また1958年にも来ました。」
「1956年と1958年!」とその男性は叫んだ。信じられないようだった。
「15年ほど前にもここに来ました。これが4度目です。今はアメリカに住んでいます。」と付け加えた。
「1956年と1958年にはどちらにお住まいだったのですか?」
「シュリ・オーロビンド アシュラムです。」
「なんですって! ではディリップダをご存知でしたか。」
この問いに答えるのは嬉しかった。「あの頃はディリップダの陽の光のような愛情を浴びていました。」
「どうぞ、お座りください。お座り下さい。ぜひ、もっとお話を聞かせてください。」
「お話しできることならたくさんありますよ。」
「お座りになって、聞かせてください。ディリップダの大ファンなのです。」
「ディリップ・クマール・ロイは不滅です。」
「どうぞ、紅茶を召し上がって下さい。」
「いえ、けっこうです。今日はもう紅茶を3杯も飲んでしまった。飲みすぎは良くないので。」
「いえ、どうか、紅茶を召し上がって下さい。そうしたらラマナ・マハルシが私たちと食事を共にした場所にお連れしますよ。」
「それは嬉しいです。」
その男性は紅茶を持ってくるといってきかなかった。そして、飲む場所を教えてくれた。なんということか、階段が何段もあった。「お許し下さい。膝の状態が悪いので、階段を登ることができないのです。」
「わかりました。ではこの事務所でいただきましょう。」
それで、2人して事務所に座り紅茶を飲んだ。<黄金の歌声>ディリップダについて本当にたくさんの質問をしてきた。私もディリップダについていい話を本当にたくさんしてあげた。それを聞いて、本当に嬉しかったようだ。それから、「今度は貴方ご自身について教えていただけますか。」と聞いてきた。
「私はチンモイ・クマール・ゴーシュと言います。」
男性は唖然としていた。「シュリ・チンモイ? シュリ・チンモイですか?」
「はい、シュリ・チンモイです。」
「では、貴方が『インド・エクスプレス』や『ヒンズー』に書かれてあったあの?」
「そうです、私です。」
この男性は大変興奮して嬉しがった。「所長がおりましたら、喜んでお会いしていたと思います。あいにく町を出ておりまして。今晩お泊りになれれば、明日戻りましてからお会いできると思うのですが。」
「ということは、貴方は副所長さんでいらっしゃいますか。」
「私は何者でもありませんよ。何者でもありません。」と、非常に謙虚に言った。名前を聞くと、マニ・ラマナンだと言った。所長である兄のシュンダラムと彼は、ラマナ・マハルシの直系の子孫だった。
もともとは30分だけ行ってこようと思っていたが、2時間以上も過ごしてしまった。マニはとても親切にしてくれた。そしてある時点で、「うちのアシュラムをどう思われます?」と聞いてきた。
「今まで本当にたくさん、スピリチュアルな場所を訪ねてきました。私はアメリカに住んでいます。ニューヨークです。アメリカでは音は音、静寂は静寂です。ここでは、テンプルの周り、そしてラマナ・マハルシ アシュラムのそばでは、静寂が本当に深い静寂だといえると思います。でも音の中にもやはり静寂を感じるのです。」
マニが私を見つめた。私は説明するようにこう加えた。「音は音、静寂は静寂です。でもここラマナ・マハルシの地では、音の中にさえ本当に平和と喜びを感じます。すれ違う男の人も女の人もその表情に本当に平和を感じるのです。本当にたくさん平和があるのです。ここでは音の中にも平和を感じます。」
するとマニはとてもとても嬉しそうだった。話の最後には、「ここを訪れてくださって、実に実に嬉しいです。本当に幸運なことです。」と言ってくれた。
ポンディチェリーへの帰り道、私は恍惚の海でただ泳いでいた。車の中でラマナ・マハルシに捧げる詩をベンガル語で書いた。
TCE 27. 1999年6月11日↩
2つから選ばなければならなかった。「魚を。」スチュワーデスは小さな切り身の魚とサラダを目の前に置いた。魚を脇によけ、サラダを食べ始めたが、何と葉っぱしかない! 中には何も入ってなかった。トレイには小さなクッキーも何枚か載っていた。
途中でジュースはどうかと聞かれたので、ジュースを一回、ジンジャーエールを一回もらった。それで食事は終わりだった! 紅茶はいかがかと何度も聞かれたが、聖人でいた。紅茶もコーヒーももらわなかった。今年の6月ポンディチェリーから戻る時にアハナ姉さんとした約束を尊重しないといけないのだ。
TCE 28. 1999年8月8日↩
その時同行した者はほとんどいなかったが、シュレーシュ・チャンドラ・チャクラヴァーティはその数少ないお供の若者の1人だった。交代でシュリ・オーロビンドのためにお茶を入れたり食事をつくったりしたという。シュリ・オーロビンドは紅茶を飲む時テーブルに足を乗せて飲む癖があり、この青年もそうで、同じようにテーブルに足を乗せていた。他にこんなことができる者はいなかった。シュレーシュは本当にシュリ・オーロビンドと親しい仲だったのだ。
その後1914年にマザーがポンディチェリーにやってくると、この青年の態度にショックをうけた。師の前で弟子が足をテーブルに乗せるなんて、ありえない。それでマザーはこれをやめさせた。マザーはシュリ・オーロビンドの食事に関してもとても厳しかった。一日8、9杯飲んでいた紅茶を1杯にまで減らさせた。
TCE 29. 2002年1月14日↩
ヘブライ人への手紙。23
TCE 30. シュリ・チンモイはこのジョークを2005年6月25日教え子に向かって言った。
↩新約聖書の1書。英語ではHebrewsで、"He brews"「彼が(コーヒーを)入れる」と同じ発音で掛け合わせている。↩
その瞬間、内的世界ではっきりと姉さんが見えた。「反対側にあるスタンドでなら水や他のものが売っているわよ。」
「見えないよ。コーヒーって書いてあるコーヒースタンドしか見えない。」コーヒースタンドの反対側では水とポテトチップを売っていたのだが、それに気づかなかったのだ。何も見えなかったから、内的世界で姉さんと議論していた。姉さんは1950年の7月に他界している。「あちら側に行きなさい。」と言われた。
やっとそちら側に行き、姉さんが正しかったことがわかった。水を買うことができた。ポテトチップスは買わなかった。それから水を飲んで、満足した。
TCE 31. 2002年1月28日↩
シュレンドラ・モハン・ゴーシュはまた、我らがノリニダの親友でもあった。アシュラムに来るたび、午後1時半ごろノリニダと紅茶を飲みにきたものだ。ノリニダに1日2回紅茶を入れる役目をしたのは私のいとこ、ニルマーラだった。
私がシュレンドラ・モハン・ゴーシュと初めて会ったのは、ノリニダの部屋だった。ある日きてみると、ノリニダとおしゃべりしながら紅茶を飲んでいた。私は手を合わせ、書類を取るのに部屋の中に入った。入っても大丈夫だと分かっていたからだ。礼儀正しく部屋を出ようとすると、ノリニダに止められた。私をその人に紹介すると、英語で、「チンモイは私の書いたものすべて、私に関するすべての、唯一の権威なのですよ。」と言った。このときまでには、私はノリニダの書いた論考を何百もベンガル語から英語に訳していた。
あとになって、シュレンドラ・モハン・ゴーシュは自宅に私を招待してくれ、本当に優しくしてくれた。インドのパスポートを取得した時は実に苦労したが、大きな助けとなってくれた1人だ。私をとても、とても気に入ってくれた。
私の2冊目の著作が出た時、一冊進呈した。タイトルは「黄金のすべての母」だった。シュレンドラ・モハン・ゴーシュは、読み終わるとカーリダーサの非常に有名な一節を引用してくれた。その意味は、
> 女神サラスワティの
> 恩寵が下りてくると> 口のきけない者が雄弁になり
> 手足の不自由な者が山を幾つも登るようになるそしてこう言った。「マザーの恩寵があれば、何でも可能になる。」彼は、私が学校を卒業していなく、なんの学位も持っていないことを知っていたからだ。でも恩寵が下りてきた。
TCE 32. 2002年6月3日↩
ラヴィ・シャンカールは自伝の「我が音楽、我が人生」の中で、スピリチュアルに実に意味深いこんな出来事について書いている。知ってのとおり、スピリチュアル・マスター(魂の師)は何でも好きな形を取ることができる。ある日、ラヴィ・シャンカールのグル、タット・ババが遠くの町に出かけたときのこと。突然弟子の1人がラヴィ・シャンカールのところへ叫びながらやって来た。「ババが来られた! ババが来られた!」
ラヴィ・シャンカールはけげんに思った。グルはここにはおられないことを知っていたからだ。グルがおられるという場所に行ってはみたものの、まさか本当にそこにいるとは信じられなかった。実のところ、この弟子の献身ぶりは少々狂信的なのではないかと思ったほどだ。
その家に着くと、目に入ったのは何だったか? ババの椅子に留まっている奇麗なオウムだった。この椅子はババしか座れないことになっている。鳥の好きな餌を持ってきた者がいたが、オウムは全く興味を示さない。ところが紅茶がカップに入っているのを見ると、少しずつその紅茶をすすり始めた。この時までには、そこにいた弟子全員が、このオウムは実は親愛なるタット・ババに他ならないということに気づいていた。タット・ババは紅茶が大好きだったのだ。
オウムはその椅子に3日間いつづけ、その間敬意を払うため、たくさんの人が訪れた。ラヴィ・シャンカールもまた、そのグルの前で頭を下げた。そしてある日、オウムは窓からいなくなった。
TCE 33. 2002年10月30日↩
1893年のシカゴ万国宗教会議の後、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは一躍世界の有名人になった。しかしここアメリカでは、宗教的狂信者で彼に大きく反発した者もいた。いたるところで彼を中傷し、評判をがた落ちにしようとしたのだ。
ある時ヴィヴェーカーナンダと彼を敬愛する6、7人が、とある名の知られた女性の家に招かれた。食事をしながら、皆で「よもやま話」をずっとしていた。スピリチュアルなこととは何の関係もないことだ。世間話の第7天国にいたというわけだ。
家主が来て、みんなに聞いた。「それでは、コーヒーはいかが?」ヴィヴェーカーナンダは時に1日20杯も紅茶を飲んでいた。シャンカールが言うにはコーヒーも何杯か飲んだそうだ。ヴィヴェーカーナンダの友人も弟子もみな紅茶、コーヒーを飲んだ。
この日はコーヒーが出された。皆が飲み始めた。ヴィヴェーカーナンダもカップを持ち上げ口へ持っていくと、自分の師、シュリ・ラーマクリシュナがはっきりと見えた。「ナーレン、やめなさい、やめなさい! 毒が入っているぞ。」
狂信者たちが料理人を買収して、ヴィヴェーカーナンダのカップの中に毒を入れさせたのだ。他の人もコーヒーを飲んでいたが、何も起こらなかった。しかしヴィヴェーカーナンダのカップを調べてみると、確かに中に毒が入っていたという。その時シュリ・ラーマクリシュナはどこにいたのか? 天国だ。
これが師の、最愛の弟子に対する愛だ。シュリ・ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダが飲もうとするのを直ちに止めさせた。さもなければ命がなくなっていたところだった。こういう狂信者というのは本当に冷酷だから。
TCE 34. 2004年1月21日↩
ローマは1日にして成らず。同じように、神を悟るのはインスタント・コーヒーとはわけが違う。少々時間がかかるのだ! 本当のコーヒーのように準備しないといけない。豆を挽いたり、他にもいろいろな準備だ!
TCE 35. 2004年2月5日↩
「ところで、チョコレートはありますか。」
「はい、ございます。」
ホット・チョコレート[ココア]と言ったつもりだったのだが、「ホット」をつけるのを忘れてしまった。それで、普通のチョコレートを持ってきてくれた。しょうがない。中を見ると3個入っていたので、2個食べて残りの1個をトレイに置いた。スチュワーデスが来てトレイを下げてしまったので、これでおしまいだった。
本を読み続けていると、10分ほどしてスチュワーデスが戻ってきて、3個目のチョコレートをトレイに戻してくれた。
TCE 36. 2004年5月2日↩
大統領は「カリー・インナ・ハリー」で用意させたインド料理を食べていたが、ライサ・マクシーモヴナ夫人は飛行機酔いで、コーヒーを少し飲みたいだけだと言った。二人は本当に何日もかけて旅していたのだ。
コーヒーはポットの中に入っていたが、情けないことに私には開け方がわからなかった。ライサ・マクシーモヴナ夫人もやってみたが、やはり開けられなかった。
それからうちの通訳のシャガールがやってみた。彼も最初は開けられなかったが、やっと開けることができ、ライサ・マクシーモヴナ夫人と大統領両方にコーヒーを入れて差し上げた。
TCE 37. 2004年5月31日↩
そしてアシュラムの生活では、紅茶を飲まないことにプライドを持っていた。20年間で2回だけしか飲まなかった。初めて飲んだ時は味が好きになれなかった。それから何年か経って、2度目に飲んだ時は、砂糖が充分に入っていなかったので気分を損ねた。
紅茶を出してくれた男に、砂糖をもう少しもらえるかと聞くと、「もう砂糖はないよ。」と言われた。すると非常に強力なプライドが私の中に入ってきて、「そうですか! じゃあ砂糖なしで飲みます。」と応えた。
砂糖がほとんど入っていなかったので嫌だっただが、プライドで飲んだ。そしてその後苦しんだ。ものすごく吐いたのだ。何か好きでないものを体内に入れると、体がものすごく強い反応をする。
その紅茶の味が嫌いだったから吐いたなんて、誰も信じてくれないだろう。でも私のシステムの中で何かがおかしくなり、苦しくなったのだ。そして私のプライドも傷ついた。だって自分は何でも食べられるし、何でも飲めると思っていたのだから。
TCE 38. 2004年10月17日↩
同じテーブルについていたタゴールの日本の友人たちも、同じように受け皿から紅茶を飲み始めた。そしてその1人が尋ねた。「先生、どうしてこんな飲み方をされるのですか。」
「これがインドの伝統的な飲み方なんです。でもどうして皆さんも真似しなくてはならないのですか。」
「だって先生は本当にすごい方ですから。」というのが日本の友人の答えだった。
TCE 39. 2005年12月7日↩
ある日、試合が終わってから食堂へ行き、紅茶を1杯飲もうと思いました。ウェイターはカップと、ミルクを少しと、砂糖を1さじ分くれたので、砂糖をもう1さじ頼み、もらいました。そのあと「砂糖をもう1さじ分だけもらえますか。」と聞きました。
「がめつい子だな!」
「がめつい」という言葉を聞いて、カブールはただショックでした。がめついだなんて、どうして? 「がめついなんて、呼ばないで下さい!」
「砂糖を1さじどころか3さじも欲しがっているだろう。他に呼びようがないよ。本当にがめつい子だ!」
カブールは本当に悲しく、ショックでした。でもとにかく紅茶を飲み、それからミルクを1杯頼みました。ウェイターが持ってくると、「紅茶をもう1杯お願いします。砂糖は3さじで。必要ならお代は払います。」と言いました。
「わかったよ、払ってくれるのなら1さじでなく3さじ持ってこよう。普通は1さじ分しか出さないんだが、払うって言うのなら何さじ分でも出しましょう。」
男が紅茶を持ってくるまでには、ミルクを半分飲み終えていました。「じゃあ、紅茶用のミルクを下さい。」
「バカじゃないか? こんなにたくさんミルクがあるだろう。そこから少し注げばいいだけじゃないか?」
「どうして? なぜ紅茶についてくることになっているミルクの分を、僕が払わないといけないんですか。持ってきて下さい。」
「バカじゃないか!」
「僕がバカならあなたは詐欺です。ミルクを下さい。」
ウェイターは少しのミルクを持ってくると「おまえは詐欺で、がめつくて、バカだ。」と言いました。
「今誓いを立てます。この人生ではもう決して、2度と紅茶を飲まない。今日あなたは僕のことをがめついと言い、今バカとも呼んだ。だから、この人生でもう紅茶は飲まない。誓って。」
「不愉快な子だ! それがどうしたっていうんだ? おまえが紅茶を飲もうが飲むまいが、誰も気にしないよ! どうでもいいさ! 不愉快な子だ!」
カブールは憤慨し「ああそうさ、僕はがめつい! バカだ! 不愉快だ!」と言うと代金を払い、とても悲しく落ち込んだ気持ちで食堂を出ました。「僕は裕福な家の生まれなのに、あの人に1日で3度もばかにされた! 家で食事をするときは、両親、特にお母さんにはいっぱい食べるようにといつも言われる。食べれば食べるほど、お小遣いをたくさんもらえるんだ。それなのにここでは、飲めば飲むほどお金を取られる。家では両親が愛も優しさも全部くれる。それだけでなく、食べれば食べるほどお小遣いがもらえるんだ。食べると両親が愛と優しさを全部くれる。それなのにここの人は、本当に無関心でぞんざいだ。僕のことなんてどうでもいいのだ。そして僕の方がお金を払わなくちゃいけない。」
カブールは家に着くと「お母さん、今日どこにでもいる普通のおじさんにすごい無礼なことを言われたんだ! ウェイターだったんだけど、僕を侮辱して、がめつい子だって言ったんだよ。それからバカとも呼ばれた。それから不愉快だって。」と母親に言いました。
お母さんは話を一部始終聞くと、言いました。「いい、カブール、紅茶は体に悪いって何度も言ったでしょう? だから家ではみんな紅茶を飲まないのよ。家では紅茶を絶対に飲ませないでしょう。外でも紅茶を飲んじゃいけない、って何度も言ったでしょう。言うことを聞かないから。ね、お母さんの言うことを聞かないとこうやって無礼なことをされるのよ!」
「お母さん、これからはいつもお母さんの言うことをきくね。これからは、紅茶は飲まないよ。それに、やらないように言われたことはしません。いつも言うことを聞きます。お母さんにするように言われたことは何でもします。しないように言われたことはしません。お母さんにいつでも喜んでもらえるようにします。素直な子になります。言うことを聞いたら誰からもばかにされないんだよね。」
「カブール、そうよ、お母さんの言うことを聞いていれば、誰もあなたに無礼をしようなんて思わないわよ。」
TCE 40. 1974年↩
弟子に1日に紅茶を6杯飲んでいた者がいた。だから5杯にするよう頼んだ。そして1ヶ月後、4杯にするように言った。最終的には全く飲まなくなった。重大なことは段々にしていかないといけない。もし急にやめていたら、なにか重い病気になって苦しんでいたかもしれない。体が強くなければ、習慣を急に変えると健康に深刻なダメージを与えかねない。
疲れている時助けてくれる、スピリチュアルな方法がある。片方ずつの鼻でする呼吸法を5分間してみればいい。でも、機械的にやらないこと。呼吸している間集中すれば、神聖なエネルギーを吸い込んでいると絶対に感じられる。コーヒーはエネルギーをくれる。お茶もエネルギーをくれる。でも常に吸い込んでいる神聖なエネルギーは、コーヒーやお茶より果てしなく大きなパワーがあるのだ。
眠気を感じる時、そんな状態で運転するなんて危険な感じがする、とあなた達は言う。あなたの人生に助けの手を差し伸べてくれるのは、コーヒーと紅茶だけなんてことがあるだろうか? いつも言っているように、コーヒーと紅茶は回りの遅い毒だ。他にも目を覚ますための方法、スピリチュアルな方法がある。
本書には、その夜にシュリ・チンモイが語った思い出と、折に触れて聞かせてくれた他の話がまとめられている。この中には、有名な人物にまつわる紅茶とコーヒーのエピソードも収められている。スワミ・ヴィヴェーカーナンダ、ラビンドラナート・タゴール、ノリニ・カンタ・グプタ、ライサ・マクシーモヴナ ゴルバチョフ夫人、パンディット・ラヴィ・シャンカールといった面々である。紅茶にまつわるシュリ・チンモイ作の短編も一作収められている。また、他書からの引用も掲載した。この中でシュリ・チンモイは、ゆっくりと着実に歩む悟りへの道とは正反対のものとしてインスタント・コーヒーを比喩に使っている。
シュリ・チンモイはコーヒーと紅茶を「回りの遅い毒」とし、その過剰摂取をいましめたが、一方で生徒によっては摂取を勧めることもあった。特に州をまたがる長時間の運転をする前や、徹夜のプロジェクト、ある種のマラソン競技の場合などである。また生徒には、おいしいコーヒーと紅茶が自慢のカフェの経営に携わっている者も多い。有機栽培コーヒーの卸業も1人いるくらいである。そして世界中にいるシュリ・チンモイの生徒が経営するベジタリアン・レストランで人気メニューの1つは、インドのチャイである。
シュリ・チンモイの紅茶とコーヒーに対する姿勢は、現代に生きたスピリチュアル・マスターの愛情あふれる無数の側面の1つといえるのではないか。最高の精神的レベルからは、あらゆる場でシーカーに、神へと続く「日に照らされた道」を提示した。一方人間的レベルでは、この世界で生きるということに心から参加した。コーヒーを飲むということも含めて。それは、7マイル・レースをさっそうと走る前だったり、休みなく世界に奉仕する合間のひと時、空港で飛行機を待つ間だったりしたのだ。From:Sri Chinmoy,私の紅茶とコーヒー体験談, Agni Press, 2009
https://ja.srichinmoylibrary.com/tce より転用