私たちの飛行機はチューリッヒに11時半に到着し、12時にはザトペックの飛行機が着くはずだった。カイラーシュとアバリタと私は、写真担当を2人連れてもう一つの出口へと出向き、待った。ザトペックの飛行機は定刻通りに到着したのだが、荷物に問題が起きた。彼はブリーフケースといってもいい位の小さなカバンを持っていて、これが奥さんと2人分の荷物だった。しかしこのカバンを機内に持ち込みさせてもらえず、預け入れ荷物にしなければならなかった。後から言っていたが、アメリカでは大きい荷物、巨大な箱でも何でも持ち込むことができる。それなのにあんなに小さなカバンを持ち込みさせてもらえないというのは馬鹿げている、と。
皆でガラス越しに見ていると、ザトペックはターンテーブルでカバンが出てくるのを待っていた。他の人の荷物は出てきたのに彼のカバンは出てこない。この点で、彼は私の親友と言える。他の人の荷物は全部出てきたのに私のは出てこない、ということが何度あったことか。今回ニューヨークへ帰ってくるのにも、到着は昨日だったのに、荷物は今日になってやっと届いた。こんな私の境遇は笑える話とも、辛い話ともとれる。
ザトペックの姿が見えたので皆興奮したが、カバンをまだ探していたので外に出てきて会う事はできなかった。待っている途中10人以上の中年から年配の女性たちに
「ここにザトペックがいるんですか?」 と聞かれたので、彼を指差し、「そうです、あそこですよ。」と答えた。
その女性たちは自分の荷物はもう受け取ったのに、なんと、今度は彼に会いたかった。30分かそれ以上外で彼のことを待っていた。ただザトペックに会いたくて会いたくて仕方ない様子だった。もしかしたら実物を見る機会がこれまでなかったのかもしれない。ザトペックの若き日、チャンピオンだった頃にその名を耳にしていて、今回会いたいと思ったのだろう。ようやく外に出てきてたので、私は近づいていった。向こうも私のことに気づいたので、握手をしようと思ったが、ザトペックはすぐに両手を合わせインド式に「ナマスカール」 と挨拶してくれた。そしてヒンディー語の言葉をいくつか使ってヒンディー語で話しかけてきた。熱いお茶を飲みませんかと言った後で、
「ヒンディー語は簡単なのに、どうしてウルドゥー語は習得できなかったんでしょう?」 と言っていた。
奥さんと二人、インドで4ヶ月過ごしたのだ。それからいろいろなことをあれこれ話した。 フランスの弟子が1人、私のビデオカメラを使って撮影していたのだが、何にも写っていなかった。なんてことだ! しかし幸いなことに、マルコが非常に良い写真を30枚か40枚撮ってくれた。それからザトペックと奥さんは一休みしにホテルへと向かった。5000メートル走の最中、ザトペックは自分が勝って欲しいと思うランナーを一人選び、
「このランナーが一番になる。」と言った。偶然にもそのランナーは約一年前私に手紙を書いてきた人だった。私のことを耳にし、私がしたあることについて激励してくれた。その人とこのランナーが同一人物だとザトペックに言うのを忘れていた。ザトペックは手を叩きそのランナーの名を大声で叫んでいたが、一番にはならなかった。後で、そのランナーが私に会いたいということだったので、その人の所へ行き祝いの言葉をかけ、元気づけた。
ザトペックが5000メートル走の表彰役として出ていくと、聴衆みんなが拍手を送った。スタジアムにいた誰もが彼のことを盛んに称えていた。主催者がスピーカーでアバリタの名を呼び、表彰式に出てくださいとお願いしていた。アバリタは天から真っ逆さまにでも落ちてきたようだった! スタジアムの中央に行って表彰するなんてできっこない。円盤投げの事は何も知らないし、自分は偉いなどとは思っていないのだから。しかし主催者側は「あなたは偉い方です。」と言う。
表彰式では3、4人の女子選手が並び、役員がメダルを一人一人の首にかけていた。勝者は皆アバリタの3、4倍もある巨体だった。テジヤンやビーマ位大きかった。全く別世界の存在。アバリタは緊張していたが、偉い人になってしまったので、出て行って表彰しなければならなかった。リレーの後で、私はスタジアムで賞を授与する役だったが、ザトペックを讃え彼について語ることになっていた。4、5分間ザトペックに謝辞を述べ、奥さんのことにも触れた。そのあとでザトペックも話し、主催者に感謝し皆を激励してくれた。
ドイツの弟子たちが(私が作詞作曲した)「走って、成って(Run and Become)」とマラソン・ソングを歌い、とてもよかった。弟子たちが持っていたのはこれ以上ないほど小さなメダルだった。
「どうしたらいいんだ?」と言うと、アバリタは、「どうしたらいいでしょう。それなりの品を贈呈しなかったら、どう思われるか。」
そんなに小さかったら変だと思われる、というのが弟子たちの考えだった。そこで、とても大きなチョコレートを紙に包んで、その上にメダルを乗せた。 しかしその夜、この埋め合わせにザトペックに彼が好きな、とても大きなカッコー時計など、非常に良い品を贈呈できた。あとで、最初贈呈した品は全部その場しのぎだったと伝えた。他にどうしようもなかった。何千人もの人が見ていたのだから。ザトペックはビールが好きだ。彼のホテルへ一緒に戻ると、各部屋に小さな冷蔵庫が据え付けてあった。そこでザトペックは奥さんにビールを持って来るよう頼んだが、その後考えを変えて、
「いやだめだ、だめだ! シュリ・チンモイは水を飲んでいた。あれを見た後にビールは飲めない。」と言った。彼が言った通りの言葉だ。そして水をくれるよう奥さんに頼んだ。
奥さんは嬉々として水を持ってきた。何故なら、何年もビールの量を減らすよう夫に言ってきたからだ。するとザトペックは奥さんをさらに喜ばせようと、
「よし、もうビールは飲まない。本当にごくたまにしか飲まないことにする。あとはいつも水だけにする。シュリ・チンモイは水を飲んでいた。もうビールは飲めない。」と言った。 その夜彼はビールを飲まず、次の日も飲まなかった。水しか飲んでいなかった。二日間ビール断ちをしたことになる。奥さんは夫が願いを聞いてくれたことに喜んでいた。「お前は家族の恥だ。隣村でお前が走っているのを近所の人たちに見られていた。いろいろ悪いことを言われている。」
ザトペックは自分の村では練習しなかった。なぜなら批判され、嫌われたからだ。それでお父上は、とてもとても悲しい思いをしていた。ところがザトペックがチャンピオンになると、新聞が置いてある店を全部回り、息子の写真が載っている新聞を集めた。ザトペックの写真だけを集め、何冊も何冊もアルバムを作った。友人や親戚が訪ねてくると、息子のことを聞かれなくてもそのアルバムを見せたという。それまで父親は息子のランニングに大反対だった。しかし近所の人たちが息子を評価し始めると、本人よりそのランニングから喜びを得るようになった。私の場合も同じことが起こった。私が一番になると兄のマントゥの方がもっとずっと喜んだものだ。
本で読んだ情報を確認するため、ザトペックに100メートル、200メートル、そして400メートル走のタイムを聞くと、教えてくれた。あろうことか私のタイムの方がよかったが、言わないでおいて当然だった。私は短距離走者だったのに対し、ザトペックは中距離、長距離ランナーだったのだから。「いえ、ザトペックさんは私たちの招待でチューリッヒへ来られたのです。先生が一緒にインタビューを受けられないのなら、ザトペックさんだけをそこへ行かせるわけにはいきません。」と言い、キャンセルした。
するとそのテレビ局のならず者たちは、
「考えを変えました。お二人ともいらして下さい。」と言ってきた。10時ごろにテレビ局に着くと、メインスタジオへ連れていかれた。15分後にテレビに出ることになっていた。若い女性が来てダナとザトペックの顔におしろいを塗ると行ってしまったので、ピンときた。
「はめられたな。」そして立ち上がりアバリタに、
「私もインタビューに出るのかどうか、聞いてきなさい。」と言った。アバリタが聞きに行くと、
「それが、考えがまた変わりまして、ザトペックさんと奥さんだけお願いします。」と言われた。スタジオはライトで本当に暑かったので、同じ建物内にある別の部屋へ行こうと試みた。インタビューをもっと心地良い場所で見たかったからだ。しかしアバリタがやってきて、
「グルがいなくなってしまわれたら、すごく変です。どうかここにいらして下さい。」と言われた。「わかっているが、本当に暑いんだ。」
すると司会者が、
「特別にお席を御用意しましたので、いらしてください。」と言ってきた。特別席とは、スタジオ内で拍手だけするサクラのいるところだった。この番組を見に来た人たちが6、70人ほどいたのだが、私が誘導されて最前列に座るとすぐに、冗談を言ったり叫び声をあげたりいろいろなことをしだした。幸いなことに何を言っているのかはわからなかったが、まるで今しがた動物園から連れてこられたかのような振る舞いだった。テレビで見るサクラと全く同じような感じで嘲笑したりいろいろしていた。番組ではザトペックと奥さんがインタビューを受けている間、彼のヘルシンキでのパフォーマンスを見せていた。ある時点でザトペックは話を遮り、私のことを話し始めたのだが、司会者はすぐに話題を変えた。しかしザトペックが私の名前を言うと、カメラは2秒間私を捉え、映した。視聴者は2秒間私を見たと言うことだ。残りの時間は全てザトペックについてだった。私について話すことさえ番組は許さなかった。
全て終了後、すぐにザトペックに掴まれた。本当に悲しそうに、悲痛な表情で、
「貴方は実に実に素晴らしい、創造的な方です。」と言った。 「どうしようもないでしょう。ザトペックさんが悪いのではありませんよ。全てこれでよいのです。」「妻の方が演奏するんです。」と言った。
奥さんはギターを手に取り演奏してくれた。1、2曲歌ってくれるよう2人にお願いしたのだが、嬉しいことに、1、2、3、4、5、6、7、8曲も歌ってくれた。ずっと歌い続けてくれたのだ。お二人と私には共通点があると言える。私も歌うように頼まれると止まらない。
「私たちが歌うのはスピリチュアルな歌ではなく、フォークソングです。」と言い、いろいろな言語で何曲も歌ってくれた。その時のテープがある。とても良いものだ。2人とも素晴らしい歌声の持ち主だ。奥さんがギターを奏でザトペックが歌った。そしてある時点でザトペックに演奏して貰えないかもう一度頼んだのだが、聞いてもらえなかった。
「いや、貴方がお弟子さんたちのグルであるように、妻が私のグルなのです。」 ザトペックは「グル」と言う言葉を何度も使っていた。「ピストルはどこです?」「ピストルはないの? ピストルはないの?」と叫んでいた。
「ピストルは使わないのです。」と言うと、「ピストルはいらないでしょう。」と奥さんに言われ、
「わかった、では手を叩こう。」となった。レースのスタートは小さな橋の上だった。橋上には200人強の参加者が集まり、「シュリ・チンモイ ラウフ」と書かれた大きな横断幕の下に立っていた。ラウフとは(ドイツ語で)レースの事だ。ザトペックが一方の側に立ち、ドイツ語で何か言って最後に手を叩いてスタートを告げた。彼が手を叩くと皆も手を叩きレースがスタートした。
ロンドンの弟子は年配の女性たちも含めて、全員が走っていた。とても速いランナーの弟子たちもまた走っていた。弟子の中では、シュンダーが1番にゴールし、次がジャナカだった。しかしそれより地元のスイス男子の方が早かった。私は体調が良くなかったので、一番最後、皆の後ろから走っていた。小さなループを走っていたそんな私を見つけると、ザトペックは本当に興奮して、一生懸命手を叩いていた。奥さんも立ち上がり手を叩き続けてくれた。私は皆の後ろ、一番最後で走っていたにもかかわらずだ。
後方の女子ランナーの中には、ループに沿って係員が誘導している場所で、何度も近道を取っている者たちがいた。その子たちには後で、ズルしていたね、と言ってやった。立っている係員の周りを走ることになっていたのに、横切って走ったのだ。それで4度も、50〜70メートルは節約していた。本当に嫌気がさした。ループの一つでは、少なくとも200メートル省略していた。近道をしたのだ。どういうつもりなのか? 後方ランナーだから、誰も気づかないだろうと思ったのだ。
レースが終了すると、ザトペックが賞を授与してくれたのだが、本当に恥ずかしかったのは、1、2、3位のトロフィーが同じサイズで、同じ形だった。ただトロフィーに1位、2位、3位と書いてあっただけだ。どうしてこんなことになったのかと思った。
フィリップが勝者の名前を読み上げ、ザトペックにトロフィーを渡すと、ザトペックがその勝者にトロフィーを渡した。トロフィーを受け取りに来た一人一人に、ザトペックは励ましの言葉をかけていた。実に実に優しかった。ハチミツなど、健康に良い食べ物の副賞もあった。勝者のために健康食品が用意されているのを見て、ザトペックは実に嬉しそうだった。トロフィーを手渡した後、食べ物の方を指差して本当に嬉しそうに、
「どうぞお好きなのを選んでください。」と言っていた。私がザトペックと奥さん両方に感謝すると、ザトペックもスピーチをし、私たちに謝辞を述べた。それからこちらへ歩み寄ってきて私の手をつかみ、
「我らがグル、最高です。」とコメントした。レースや雰囲気、全てに満足したので、「我らがグル、最高です。」と言ったのだ。チューリッヒ市長はカナダ出身なのだが、補佐をよこして私を賛辞してくれた。宣言書を持参し、7 、8分ほどスピーチし、非常にいいことを言ってくれた。突然、彼の奥方が現れ、とても大きな花束を渡された。奥さんは旦那さんよりかなり背が高い方で、私の方を見て微笑んでいた。
「妻がこの花束を差し上げたいと申しまして。」 それでその花束を受け取り、奥さんに感謝した。アバリタがザトペックについて書いた本は皆に好評だった。ドイツ語で書かれており、アバリタがザトペック家に滞在した時の会話が収録されている。レース前も後もランナーが何人もザトペックの所へやってきて、その本にサインしてほしいと頼んでいた。カーラが本の販売役で、ザトペックと奥さんは隣同士に座ってサインをしていた。大事な人だと判断したら、奥さんにもサインするよう促していたが、それ以外の時は彼のサインだけで充分だった。何百人という人が来て列に並んだ。
列に人がまばらになり始めると、私も並んだ。前には7、8人の人がいたのだが、アバリタが頼んで私が前に行けるようにしてくれた。
ザトペックの前にアバリタの本を持って立つと、
「大きな感嘆を込め、最高のグルに捧げます。」と書いてくれた。そして自分の名前をサインし、やり投げで標的を定めている絵を描いた。私と同じように彼も芸術家になったのだ。自分のサインにイラストを添えて。私はサインをする時、鳥を描く。ザトペックの場合は、やり投げを描いた。ザトペックは1時間以上も私たちのゲームを見ていた。他に全然いい選手がいなかったので、私はヨーロッパの弟子たちを皆打ち負かし、素晴らしいプレイをしているように見えた。4、5回、観戦しながら走ってボール拾いをし、サーブ側に投げる係に手渡してくれた。本当にゲームを楽しんでいたようだったが、彼自身はプレイしなかった。
ザトペックも奥さんも実に良い人で、全てが完璧にうまく行った。お二人とも訪ねてきたことを本当に嬉しがっていたし、私たちもお二人を迎えられて本当に嬉しかった。弟子達のことを気にいってくれ、本当に本当に深く感動していた。アインシュタインについて現存の最高権威の方がそこにおられた。アインシュタインについての本を記していた。その教授が私の中に何を見たのかはわからないが、話しが止まらず、私が階段を降りるのを全く許してくれなかった。アインシュタインの精神性やその他の事について何でも話してくれた。
そして最後に、
「どうか、一筆お願いします。」と言われたので、ゲストブックに何かを書くことになった。そこでは名前をサインするのではなく、何か一筆書いてほしいということなのだ。その大きなゲストブックに一筆記している間、教授は隣に立ち私を見守っていた。とても感動した。ジョルジオは私に付き添って写真を撮ることになっていた。理由は先代のローマ法王の時に問題が起こったからだ。パウロ4世に初めてお会いした時は、良い写真が撮れた。2回目はバチカンの写真担当が撮ったのだが、何も現像されなかった。3回目は、バチカンの写真担当がやってきて、何枚写真が欲しいか聞いてきた。しかしローマ法王に私が実際に謁見する段になると、その写真担当は部屋を出て行ってしまった。探したけれど、見つからなかった。
今回は、ヨハネパウロ2世とお会いする訳だったが、念には念を入れたかった。1人付き添いを連れて行っていいことになっていたので、友人そして教え子ということでジョルジオが一緒に来た。イタリア語が話せたから、という理由もある。7時15分前ぐらいになると、ローマ法王が小さな車に乗って到着した。通路を車で進みつつ、車中から人々を祝福していた。そして車から出てこられ、玉座に向かって歩きつつ、ある人を祝福しては次の人と握手をし、また他の人の肩を軽くたたいたり、という風にいろいろなことをされていた。家族に挨拶して回っている愛情一杯のおじいさんのようだった。
特別なユニフォームを着たアフリカの歌い手のグループがいた。時々歌ったかと思うと今度は顔や頭を手のひらで叩いたりしていた。それもパフォーマンスの一部だった。ローマ法王はそのパフォーマンスに非常に満足され、ずっと拍手をし続けていた。前回パウロ法王にお会いした時のように、今回もまた最前列になった。私の横にいたのは枢機卿が1人、そしてアフリカからの司祭が2、3人だった。この人たちも法王に謁見することになっていた。私たち一人一人と個人的にお話下さるので、そういう意味で個別謁見であった。後ろにはもう1列あったので、全部で2列の人が待っていた。
ローマ法王の玉座も靴も実に実に簡素だった。白い法衣を召されていた。お話の最中6、7回私の方を見て微笑まれた。わずか10メートルか12メートルしか離れていないところに座っていたのだが、スピーチの最中私の方に6、7回目を向け、挨拶をしてくださった。法王が私の方に来られたのですぐに起立すると、枢機卿の1人が「国連のシュリ・チンモイさんです。」と紹介した。
私はサナタン(製作)の記念盾を法王に贈呈した。本当に美しい盾だった。法王についての歌が記された小冊子も添えた。記念盾と小冊子を手渡すと、
「国連からいらしたのですね。」と言われた。「はい、そうです。」
「インドの方ですか?」「はい。」
すると、「インド、インド、インド!」と本当に喜びと熱意を込めた表情で言われた。実に完全に喜びに溢れていた。法王は力強く私の肘をつかみ、愛情を一杯込め、まるでずっと忘れていた古き友、あるいは孫息子であるかのように私を見つめられた。私をしっかりと掴み、話しかけてこられた。そして愛情を込め肩を7、8回軽く叩いてくださった。
そして、「貴方のメンバーの方々に特別なご挨拶を送ります。特別の祝福がありますように。共に続けてゆきましょう。」と言われた。
交わした言葉の数は少なかったが、記念盾を感心してご覧になり、時間を取ってくださった。「我々の最初の10年」と題された国連の小冊子に載っていた、前法王と一緒に撮影した写真もお見せした。法王はその写真と、御自分についての歌が収められた小冊子も御覧になっていた。例にもれず、インド人が質疑応答の時間を独占した。インド人が3人、他の誰にも質問することを許さなかった。第三の目に感じる圧迫感について、輪廻転生について、というように、次から次へと質問が続いた。
質疑応答の前に、背の高い若者が自己紹介しに来た。イタリア国連大使付きの秘書の1人だと言った。国連での私たちの瞑想に5、6回来たことがあり、非常に良い時間を過ごせたと言ってくれた。瞑想と講演会のために、こんなに小さな集まりに来てくれるとは信じられないと言っていた。実に実に良い人だった。後からのミーティングにも来てくれた。
ミーティングを企画してくれた女性は、本当はニューヨークへ来て私に会い、弟子になりたいと思っていた。しかしニューヨークに来る代わりにマイアミへ行き、別の師に出会い、その人の弟子になった。
「私は正しいことをしたのでしょうか? 本当のグルを見つけたのでしょうか?」と聞かれたので、 「絶対に正しいことをされましたよ。本当のグルを見つけましたね。」と答えた。本物のグルと、本当の道を見つけたことを非常に喜んでいた。館長がやってきてゲストブックを差し出し、
「どうぞサインと、何か一筆お願いいたします。」と頼まれた。 「何か一筆」とはどういう意味だろうか? 私は丸1ページ分記すと、館長は嬉しそうだった。この方も教授だった。非常に良い経験をした。フランスについての歌も作曲した。タイトルは「ヴィヴェ ラ フランス」だ。ヨーロッパの弟子たちは非常に喜んでくれ、今覚えているところだ。
プロジュワルの印刷所に名前をつけた。「パーフェクション・グローリー(完璧の栄光)」と言う。現地で、その印刷所に捧げ、一曲作った。1時間半、共に時を過ごした。なんと感動的だったことか! 本当にたくさんのことが話題にのぼり、話が尽きなかった。そして一つ、最高に驚いたことがある。1958年に、写真を数枚貼った小さなアルバムをソミトラに贈呈した。彼についての歌も2曲作った。そのうちの1曲を、アシュラム長の前で運動選手200人で披露したこともある。その2曲、私の写真、そしてアルバムをずっと取っておいてくれた。私の写真とは、プロジュワルが以前、私がフルマラソンを走っている写真を彼に送っていたものだ。そのすべてを宝物のように取っておいてくれたのだった。私はアルバムと写真のことはすっかり忘れていたのだが、ソミトラは戸棚の中に鍵をかけて、一番の貴重品と共に大切に保管しておいてくれた。それを細心の注意と気遣いで持ってきてくれた。
本当にたくさんの積もる話をし、素晴らしい喜びを分かち合った。奥さんは非常にスピリチュアルな方だ。インドにいた頃はまだ独身だったけれど。
旧友との友情が甦った。会話の中で、
「貴方は素晴らしいコーチだったけれど、私は見込みがない生徒でしたね。」と言ったところ、「見込みがないなんて、一度も言わなかったでしょう。全部思い込みですよ!」
「教えてくれたようには学べなかったし。」
「でもそれは見込みがないということではない。自分流ですごくよくできたではないですか。」
ソミトラはそんな人だった。何千人と言う見物客が訪れていた。前大会に続き、若者の中には「ウェルカム」、「サンキュー」などという言葉を色のついた旗で見せている者たちもいて、実に綺麗で素敵だった。
司会者がスペイン語で私についての紹介を10行か12行位読み上げてくれ、その後女性スタッフの後をついて台に登った。ウッタマが後についてきた。私の役割は開会宣言をすることではなく、開会宣言の後で瞑想を行うことだった。開会するのは知事の役目になっていたが、どうしたことか知事の到着が何かの理由で遅延していた。それで主催者側は、
「シュリ・チンモイさんから開会の祝辞をいただきます。」とアナウンスした。私は台の方へ行き、ウッタマが一言二言述べた。来賓の皆さんに感謝した後、私を紹介した。私は聴衆の方を向き2、3分瞑想した。それから方向を変え、色のついた旗を見せている人たちに瞑想し、その後数分スピーチをした。皆さんに感謝の辞を述べ、選手の皆さんのためにスープリームの祝福を下ろしてきた。
何千人という人がいたが、皆水を打ったような静けさで聞いていた。
「自作の一曲をパンアメリカン・マスターズ大会の魂に捧げます。」と述べると、スピーカーからテープが流れた。非常に良かった。ただただ素晴らしかった。ウッタマが市長に私のことを何と話したのかは、見当もつかないが、後から市長が私のところへやってきた。少なくとも200メートルは歩いてこられたと思う。
「わざわざパンアメリカン・マスターズ大会まで足を運んで下さり感謝の限りです。」と言われた。私も市長に感謝し、選手たちについて色々と褒めると、市長は非常に喜んでいた。市長が来られた後で、主催者の会長が自己紹介してきた。背の高い若者だった。互いに感謝の言葉を交わした。とても良い方だった。
その後67歳という男性が私のところへ来た。去年、十種競技の自分の年齢カテゴリーでチャンピオンになった人で、自分の話をし始めた。子供が7人、孫は18人いて、自分が優勝するのは全て神の御恵みだと言っていた。翌日の新聞にこの人のタイムが載っていて、アシュラム時代の私のタイムと投距離の方が全然よかったが、自慢はできない。なぜなら当時私は26か27歳、一方彼は67歳なのだから。その昔16年間、首位をキープした。しかし今回は、一番のランナーと私の間には少なくとも50メートルの差があった。そんなに差があることに、観客は喜んでいた。
ボードを見ると、「プエルトリコ、シュリ・チンモイ」と出ていて、プエルトリコの弟子たちは本当に喜んでいた。400メートル走は走らないことにすると言ったにもかかわらず、聞いてくれず、「プエルトリコ、シュリ・チンモイ」と私の名前がボードに出たのだ。「グル、私のこと覚えていませんか? 先日一緒に800メートル走を走ったのですよ。」と言われてわかった。ニューヨークシティーのランダルズアイランド・レースに来た人だった。ダニーにビデオを撮るように頼んでおいたランナーだ。
「ええ、本当にいい走りでしたね。私の方がずっと後ろにいました。」と応えた。自分の年齢カテゴリーで国内トップの人だ。私に会えて非常に嬉しがっていた。プエルトリコに私が来ているというのが信じられないようだった。ランダルズアイランドでの彼のタイムは2分10秒。私のタイムは3分だった。かつてインドでは、800メートル走一位だったのだが。
30分後に、ただ話をしにこの彼が再びやってきた。パンアメリカン大会で800メートル走では皆を負かしたが、100メートル走では入賞できなかった。それで、お互い優しい励ましの言葉をかけ合った。
その後、年配の選手数人が自らの競技を通して、自分たちにも走り高飛びや棒高跳ができるのだということを見せてくれた。1人は肩で棒を押してしまい笑われたが、良いジャンプをする選手も1人か2人いた。私は観戦を楽しんだ。やり投げで、方向が合わない選手もいた。世界チャンピオンにでさえおこる問題なのだ。
75歳で非常に速く走った選手が1人いた。レースが終わると、1、2、3位のランナーがお互いを抱擁し合い、写真を撮っていて、本当にワクワクした。実に実に良い経験がたくさんできた。「シュリ・チンモイ、貴方は平和の方です。先日パンアメリカン大会で貴方が瞑想された時、本当にたくさんの平和をいただきました。」と言われた。
年齢を聞かれたので、49歳だと答えると、
「毎年若くおなりですね。私には平和が必要です。この世界には平和がひどく必要です。」それからチケット提示を求められた。チケットと搭乗券はあったのだが、パスポートが見当たらない。プエルトリコを出る時はいつもパスポートを提示するよう求められるからだ。すると、
「何をされているのです?」「パスポートを探しているのです。」
「貴方は聖人です。パスポートは不要ですよ。あなたは世界人です。平和の人は世界の人です。」と言われたのだ。「69ドルの払い戻しになります。」さらに、
「お席を数列前に変更いたしましたので。」と言われた。私が購入したチケットはエコノミークラスのものだった。しかし飛行機に乗り込みスチュワーデスに搭乗券を見せると、ファーストクラスの最前列に案内された。69ドルの払い戻しだけではなく、ファーストクラスの席になったのだ。
10分か15分すると、同じ男性が飛行機に乗り込んできた。残念なことに朝食が全部悪くなっていたので、飛行機から運び出す必要があったのだ。彼のしてくれた配慮に感謝を述べると、
「とんでもありません、嬉しいですし、光栄です。これぐらいしか私にはできませんが。本当に光栄です。」 本当の平和を下ろしてきたら、少なくとも1人は平和を受け取る人がいるかもしれないということだ。そして平和を受け取ったからと、69ドルの払い戻し付きでファーストクラスの席にしてくれた。「離陸して飛行機が飛び始めるまで、前に置かれているお荷物をお預かりしますね。離陸が終わりましたら、またお返ししますので。」と言われた。
それで鞄を彼女に手渡した。その後でフライトが20分遅れるというアナウンスがあったので、先程の鞄から本を取りたいとスチュワーデスに言いに行った。すると背の高い男性がやってきて私の前に立ち、聞かれた。
「先生、先生、どうして昨日ハーフマラソンを走られなかったのですか?」「400メートル走もできなかったのだから、ハーフマラソンはとても無理でした。」
「先生の主催するレースは本当にいいですね。早朝に行うのがいいんです。いつもエントリーします。私は早朝に走るので。」
ここではハーフマラソンが午後3時半にスタートしたので、彼は走らなかったのだと言う。プエルトリコ人なのに! プエルトリコ人はこの暑さに慣れているものなのに。
だから皆わかったでしょう。早朝にレースをスタートしたらそれを嬉しく思い感謝する人が、少なくとも1人はいるということだ。
「先生の生徒さん、お弟子さんはほんとに良い方たちですね。」
別のスチュワーデスがたまたまそこに立っていて、
「先生がいいと弟子もいいのよ。」と言った。そして、「先生、先生の開かれる集まりに何度も行きました。でも今は前とは変わってしまいましたね。瞑想中とても遠くにいるような気がします。いいんですけれど、どこか別のところにおられるような… 今はこうやってお話ししていますけど。」
「その時は瞑想しているのです。」
「はい、だからとても遠くに感じるのですね。」ここに収められている逸話は、師が自らの経験を語った会話や話の中から抽出されたもので、内容は日常的で愉快なものも少なくない。
スイス編は、この「挨拶」シリーズの第一弾。ここに収められている逸話は、師が自らの経験を語った会話や話の中から抽出されたもので、内容は日常的で愉快なものも少なくない。
イタリアとバチカン編は、この「挨拶」シリーズの第二弾。From:Sri Chinmoy,挨拶(1〜4), Agni Press, 1981
https://ja.srichinmoylibrary.com/slt_1 より転用