瞑想:神が話し、私が聞く, part 1

質問: 一番良い瞑想の仕方を教えて下さい。

シュリ・チンモイ: 一番良い瞑想の仕方は、自分が「源」から来たのだと感じることです。この源は歓喜です。瞑想中、自分はその源からやってきて、勝利をおさめ、誇らかに源へ帰っていくのだと感じてください。この世であなたは自分の役割を果たし、そして源へ帰っていくのです。インドの聖典はこう言っています。

```

Anandadd hy eva khalv imani bhutani jayante

Anandena jatani jivanti

Anandam prayantyabhisam visanti

「歓喜から私たちは生まれた。

歓喜の中で育ち

旅路の終わりには、

歓喜の中へと退く。」

```

これが究極の瞑想法です。

質問: どうやって瞑想を始めたらいいですか。

シュリ・チンモイ: まずは、スピリチュアルな本を何冊か読んでインスピレーションを得てください。本物の魂の師(スピリチュアル・マスター)が書いた本でなければなりません。偽物の魂の師や、まだ光明に達していず道中にいる求道者の書いたものはいけません。スピリチュアルな本や聖典は、どうやって肉体的・精神的にある程度規律ある人生にしたら良いか教えてくれます。数日あるいは数ヶ月、このような本に助けてもらいます。

すると瞑想は本からの知識では不十分だ、ということに気づきます。本物の瞑想のしっかりとした経験をしたくなります。実は、一人一人にその人の瞑想というのがあります。もし道の果ての内的なゴールに到達したいなら、真に自分の魂の瞑想をしなければいけません。この瞑想が運命のゴールへ到達する助けになってくれます。その場合スピリチュアルな先生、つまりあなたの魂の資質に沿った瞑想を与えることができる師が必要です。そのような師は真実の探求者に内的に瞑想を教えます。魂が前面に出てくるようにし、魂を通してどう瞑想するのか教えます。または直接その人に会ったとき個人的に教えます。もし魂の師が瞑想を与えてくれたら、それは間違いなくその求道者がし得る最高の瞑想です。

自分に師がいないのであれば、奥深くへ行きハートの一番奥から自分の瞑想を得てください。すぐに喜びを感じる、または継続する喜びを感じる瞑想が、あなたにとって一番の瞑想です。瞑想は各人で違います。あなたの瞑想は私には合わないし、私の瞑想はあなたには合いません。あなたはある食べ物が好きでも、私は好きではありません。あなたはあなたのやり方で正しく、私は私のやり方で正しいのです。しかし一度自分にとって何が最高の瞑想なのかがわかったら、それを続けてください。マインドの中またはアスピレーションを持った自分の存在の中に、いくつか瞑想を形作ってください。今日あるやり方を試してみたら、明日はまた別の瞑想の仕方を試してみるのです。7種類の瞑想の仕方があれば、毎日一つずつ試してみてもいいでしょう。一週間行ってみて、自分が最も満足、あるいは継続する喜びを得られるものが、あなたにとっての最高の瞑想です。

もしスピリチュアルな本を勉強したくない、魂の師も欲しくないというのであれば、まず最重要なのはマインドを落ち着け静かにすることです。そして魂が実際何を欲しているのか魂からマインドに言ってもらいましょう。マインドが静かであれば、魂の光をマインドで受け取れます。光はまたハートを通してもマインドに入っていきます。グループで瞑想するときはこのような瞑想をします。

私がいつもお勧めするのは集中の練習です。そうしないと、瞑想は決して実を結びません。瞑想しようと座っても、数え切れないほどの考えや思いがマインドに浮かんできて邪魔をします。何分間か集中の練習をして、それから瞑想に入ります。長い間集中と瞑想を練習してきたシーカー(真実の探求者)の中には、もう集中が必要ではない人もいます。直ちに瞑想に入っていけるのです。落ち着いて静かなマインドを持つのはたやすいことではありません。非常に困難です。神の恩寵と、最も誠実なアスピレーションがあって初めて可能になります。その人に内的な叫びがあり、神の恩寵が降りてきたら、初めてきちんとした瞑想を実践し達成できます。

質問: 瞑想を学んでいる時、どのような問いを自分にしたらいいですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想を学んでいる時シーカーが自問すべき問いは「どう瞑想したら良いのか?」「なぜ瞑想したいのか?」「どんな瞑想をしたいのか?」「瞑想中何を期待するのか?」「どのぐらい誠実にスピリチュアルライフを受け入れたのか?」「どのぐらいの時間を費やす準備ができているのか?」のように幾つかあります。しかし最高の瞑想をしている時は、何も問いは要りません。一番良い瞑想の形はマインドを超越することです。今のところマインドから良い考えや悪い考えを得ています。しかし最高の真実に入っていかねばならない日がやってきます。その時は何の考えも問いも自分の中に入らせません。

自分は初心者だと感じるなら、マインドをコントロールする必要があります。覚醒して、目を開け、すべての注意をハートに向けます。あなたの目標がただほんの少しの心の平和を得ること、あるいは家族にほんの少しの調和が欲しいだけなら、とりあえず必要なのはハートの意識的な意思だけです。

何年も瞑想してきて、自分はもう全く初心者ではないと思うところまできて初めて、ゴールへ到達したいというダイナミックな意思が助けになってくれます。「最高の瞑想をして絶対神を悟りたい。」と思うなら、ハートに瞑想して下さい。しかし至高を悟ることが目標なら、毎日何時間も最高の高みの瞑想に費やさなければなりません。瞑想中どうやってマインドの機能を止めることができるでしょうか。意識して自分の個性や性格を手放そうとしてください。意識して手放すことができたら、あなたの瞑想の魂が、人生の熱望に光明を与えてくれます。あなたの内と周りで呼吸するのは光明だけになるでしょう。

質問: 良い状態で瞑想が出来るように、貴方がどのように教えてられているのか知りたいです。

シュリ・チンモイ: これという決まったルールはありません。一種類だけ全員で行う瞑想があるのでは無いからです。各人が発達の度合いと魂の必要性に応じた瞑想をする必要があります。患者によって処方される薬は違います。同じように、一人一人にそれぞれの瞑想のやり方があります。

弟子が私の所へ来て「まだ自分の瞑想のやり方を見出していない」と言い、その弟子が誠実だと言うことがわかったら、会いに来るよう伝えます。その弟子と何分か一緒に瞑想し、どうやって瞑想したらいいのか教えます。その瞑想はその人のためだけのものです。完全にプライバシーは守られます。その弟子が他の人にその瞑想を教えたところで私はどうもしませんが、ただその弟子自身、損をします。瞑想中はそれぞれが自分の道を行かなければなりません。一人一人にそれぞれの役割があるからです。この世で満たすべき特別な使命があるのです。神の神聖なリーラ、つまり宇宙の戯曲で、全員が王様や女王様を演じるわけにはいきません。一人一人にそれぞれの役割が振り当てられています。そしてその役割を全うするためには、自身の内的必要性に応じて瞑想しなければいけません。

シーカー(真実の探求者)の中には、自分に実際必要なのは神への愛と献身だと感じる人もいるでしょう。そのような人たちは、神の近くに行くのに知的世界に入る、つまりマインドを通して行うのは時間の無駄だと感じます。このようなシーカー達はハートで祈ります。しかし、マインドで祈るのが好きな人たちもいるかもしれません。端的に言えば、もし神と非常に親密になりたいなら、子供が母親にするように、ハートを通して神の方に行かねばなりません。どの領域で何が起こっているのかなど、神の知識と智慧が欲しいのなら、マインドでアプローチしなければなりません。

その人が神へ到達し、神を自分のものとしたら道は終わります。その時「自分はこの道を来た。あの人はあの道を来た。」とは言いません。一度神の意識の中に入ったらすべての道の恩恵を手に入れます。つまり、私は献身の道を歩み、あなたはマインドの道を歩んだとしても、究極のゴールに到着すれば得るものは同じです。しかし自分の性質に応じてある一つの道を歩むべきです。いろいろな道があります。あなたはあなたの道を、私は私の道を行くのです。しかし究極的には同じゴールに到着します。

質問: 一人の師に瞑想を学ぶには、他のスピリチュアルな道全てをやめるべきですか。

シュリ・チンモイ: ある一人のスピリチュアル・マスターの導きに従って精神的規律を実践しているのであれば、その道のみを歩むことを常に勧めます。その師の道を受け入れたら、他の道はやめるべきです。その師に満足していているのに、まだ他の先生を探しているのであれば、間違いです。それは愚か者の振る舞いでしょう。

それしかできないから

```

神よ、わたしは教える

だって

それしかできないから。

「息子よ、私は学ぶ

なぜなら

それしかできないから。」

神よ、わたしは神を評価する

だって

それしかできないから。

「息子よ、私は許す

なぜなら

それしかできないから。」

```

質問: まったくの初心者の場合、どうやって瞑想したらいいですか。

シュリ・チンモイ: まずは、一日の中で朝、昼、そして夕方に少なくとも3回、静かで落ち着いた時間を持つようにしてください。実際の瞑想はする必要はありません。ただこの5分間が他の誰でもない自分のものだと感じてください。強欲な人のように振る舞ってください。この5分は家族や親戚、友達、仲が悪い人など誰であれ、絶対に渡さないと思ってください。この5分間は完全に自分だけのものです。自分と共にいる時、これは自己中心的なエゴではありません。ここで言う「自己」とは、あなたの一番高い部分です。あなたの一番高い部分とは神で、あなたはその一番高い形に成っていっています。

友達に瞑想の仕方を知っている人がいて、その人たちと一緒に瞑想をすれば、無意識にでもあなたの内的存在はその人たちからインスピレーションを得る可能性はあります。あなたが非常に誠実なシーカー(真実の探求者)であるなら、隣に座っている友達から「インスピレーション」という形で意識的に助けを受け取るでしょう。スピリチュアルな友人たちから学ぶのです。すると自然に、あなたの中の瞑想の力がより大きくなります。

あなたの場合、今のところある程度の時間瞑想を続けるだけの力はまだありません。ある程度の時間というのは15分、30分ということです。しかし大事なのはがっかりしないことです。運動を始めたばかりの時は、5分できれば良い方でしょう。しかし毎日練習すれば、数ヶ月もすれば1時間2時間とできるようになります。必要なのは決まった時間に定期的に練習することです。早朝決まった時間に瞑想できるなら、その時間に毎日瞑想を続けるようにしてみてください。その時間になると神があなたのハートの扉をノックします。扉を開けてください。神が平和、光、歓喜、そして力を与えてくれます。

規則的に行う必要があります。規則的であっても、瞑想を最優先にしないこともありますが、瞑想を重要だと感じ、スピリチュアルライフで誠実、一身に心を向け献身的であるなら、自動的に瞑想の力は強くなります。

どうか呼びかけて

```

優しき主よ

どうか我が内側の眼に呼びかけて

すぐに目覚めるから

優しき主よ

どうか我が内側の耳に呼びかけて

すぐに応えるから

優しき主よ

どうか我が内側のマインドに呼びかけて

すぐに受け取るから

優しき主よ

どうか我が内側のハートに呼びかけて

すぐに成し遂げるから

優しき主よ

どうか我が内側の命に呼びかけて

すぐに明け渡すから

```

質問: 貴方のセンターには一度も行ったことがありません。何冊か本を読みましたが、瞑想は初心者です。

シュリ・チンモイ: あなたがここへ来られるのは初めてで、本は何冊も読まれたけれど瞑想をしたことがないのですね。本を読んでそこからインスピレーションを受け、真実への熱望(アスピレーション)の領域に入られました。ここで私たちは皆至高に到達し、至高の存在を満たすよう切望しています。

スピリチュアルライフでは、魂の師(スピリチュアル・マスター)の前で自分の受容力の度合いに応じて受け取ります。あなたは初心者ですが、それで何かが受け取れないということはありません。かつて誰もが初心者でした。どのような学校でも、初心者と上級者が隣同士で学ぶことはありません。なぜなら勉強することが違うからです。しかしスピリチュアルライフでは、自分たちの前を行く人たちと内的一体感を感じないといけません。自分がどれだけ遠くまで、どれだけ深く行きたいのかも感じる必要があります。

私の弟子は特別な瞑想は要りません。なぜなら私が教え子たちの瞑想の責任を負っているからです。やり方を簡略化したのです。私が最高の超越の意識にいる写真があります。シーカーは常に自分が一番インスピレーションを受け取れるものに瞑想すべきです。教え子達は私の弟子なので、この写真に瞑想することでとてつもないインスピレーションを感じます。この写真を愛と喜びと献身で見る時、どんな初心者であろうと、以前どんな道を歩んだ人であろうと、シーカーであるが故に私の内的意識がその人に対して扉を開けます。この道では、誰であろうと献身的に毎日数分間集中し、私の第三の目に入ってくれば、その人の瞑想の責任は私が負います。家での瞑想中、シーカーが私と波長を合わせると、その人がこの時間に瞑想した、などと伝える内なる声がたちまち聞こえてくると感じます。

あなたは初心者ですが、がっかりする必要はありません。あなたの誠実な叫びが熱望の海を泳がせてくれます。私の弟子にとって一番簡単な瞑想法は、私の写真に集中することです。あなたも2、3日試してみたら良いでしょう。私を信頼しているかが一番重要な点なのですが、もし信頼しているなら、あなたの心の熱望の人生が直ちに始まることを保証します。あなた自身の誠実さで、究極の悟りへの内的探求が簡単に加速します。今のところあなたは初心者ですが、次の瞬間には初心者でいる必要はありません。初心者は一滴です。一滴が意識的に自分自身を海に投げ入れる時、その初心者はたちまち上級の熟達したシーカー、つまり熟練者になります。

質問: 他のスピリチュアルな人たちと一緒にいるのは良いことですか。

シュリ・チンモイ: あなたに導師がいるなら、その内的導きがあなたのアスピレーションを絶対に強くしてくれます。しかしいないのであれば、魂の師が書いた本を読み、シーカー、つまりスピリチュアルな人と付き合う必要があります。真実を求め瞑想しているけれど師はいない、という人はたくさんいます。「朱に交われば赤くなる」という諺はスピリチュアルライフにも当てはまります。 隣に泥棒または何か悪いことをした人が座っていたら、自然にあなたの意識は落ちます。なぜならその人からの(意識の)振動が来るからです。神聖でない否定的な力が襲いにやってきます。しかしスピリチュアルライフを送り神を悟ろうとしている人たちと付き合えば、間違いなくあなたのアスピレーションを強くしてくれます。その人たちを信頼、信用しているなら、彼らの存在自身からインスピレーションをもらえます。スピリチュアルな人は神のことを考え、神、神聖な愛、神聖な平和に瞑想しています。その隣に座ったら、この平和や愛があなたの中にも入ってくるのです。ですから一番良いのは、できるだけスピリチュアルな人たちと付き合うことです。

質問: 私はこの大学で週一回瞑想に参加していますが、もっとスピリチュアルな滋養が必要だと感じています。一人で瞑想しようとしても難しいです。何かが失われている感じがするのです。

シュリ・チンモイ: 実際はあなたは何も失ってはいません。人が四人いて、同じことをすればお互いを鼓舞できます。綱引きのようなものです。グループで瞑想しているときは、四、五人対一人で瞑想しているようなものです。その一人とは無知です。一方家で瞑想していると、あなたも一人だし無知もまた一人です。どちらが綱引きに勝つか分かりません。四人が一方で綱を引き、対する向こうには一人しかいなければ、四人の側が勝つとわかります。この内的な確信に勇気をもらい、自分も他の人と一緒に引っ張ろうと思えるのです。家で一人で瞑想したら、自分一人で無知と闘っていることになります。当然すぐに疲れ果て、悲しく惨めな気持ちになり、やる気がなくなってしまうかもしれません。しかし他の人と瞑想できれば、自分のしていることにもっと自信が持てます。

質問: どうして毎日瞑想しなければならないのですか。

シュリ・チンモイ: 答えは簡単です。毎日ご飯を食べますね。それでこの世に生き続けることができます。昨日食べたご飯で今日生きることはできません。同じように、私たちの中の神聖な子供も毎日栄養が必要です。魂に毎日ご飯を与えなければいけないのです。瞑想とは、意識して魂にご飯を与えることです。毎日食べれば、定期的に栄養を摂っているためとても強くなります。同じように毎日瞑想すれば魂に栄養がつきます。そうすると魂は自らをより良く体現する機会を得ます。言い換えれば、この世で神聖を体現する機会を得ます。ですから毎日の瞑想が必要なのです。

神と私は集う

```

神と私は集う

 双方の美の誕生を鑑賞するために

 夕方

神と私は集う

 双方の務めの終わりを愛でるために

 夜

神と私は集う

 双方の必然の生命を不滅にするために

```

質問: 最近弟子になったばかりです。起きたときに瞑想するというのは、弟子に対してですか。それとも弟子に対しては別の基準があるのですか。

シュリ・チンモイ: すべての弟子に、朝6時半前には瞑想してほしいと思っています。朝の2時から6時半の間に全員の弟子に私は集中します。その時私の魂、私の存在、私の意識はあなた方に責任をもって栄養を与えます。6時半過ぎからは、私の内的存在の責任になります。私の内的存在が私よりも劣っていると言っているわけではありません。そんな事はないのですが、肉体のマインドで私の満足を望んでいるなら、どうか6時半前に瞑想してください。6時半を過ぎて瞑想すると、私の内的存在があなたの面倒を見ることになります。そして再び、夕方または夜に瞑想をすると、私の内的存在とあなたの内的存在が直に交わります。

質問: 部屋で一人で瞑想しているのに、外の道で起こっている世の中の興奮や動揺にどうして影響されてしまうのですか。その音が部屋から聞こえなくてもそうなる、というのが特に分かりません。

シュリ・チンモイ: 一度夜が開けると、母なる大地は神聖に活力を持つか、不神聖で落ち着きがない状態になります。特に西洋では、現在のダイナミックな性質のため、宇宙にあるいは外の自然界にある種の苛立ちの感情があります。この落ち着きのない世の中の資質があなたの中に入って来る必要は無いのですが、普通は入って来てしまいます。人が動くと、あなたがどこにいようと、すぐにその振動があなたに入ってきます。空気や光は人間の労苦と不安感で既に破損されています。世の中が雄叫びをあげるライオンのようにあなたの前に立っています。吠えるライオンの前で最高の瞑想に入っていけるでしょうか。しかし自然が機能し始める前、つまり宇宙全体がまだ静かで休息している時に瞑想できれば、もっと強力な集中と深い瞑想を得ることができます。

なぜ

```

私は歌わない

なぜ?

主スープリームが

本当に魂を込めて歌うから

私が歌ったら主を困惑させてしまう

それはフェアじゃないと思う

私は踊らない

なぜ?

主スープリームが

本当に素敵に踊るから

私が踊ったら主を困惑させてしまう

それはフェアじゃないと思う ```

質問: 瞑想するのに花やお香などが必要なのはどうしてですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想の前に花を供え、お香を薫き、ろうそくに火を灯し、シャワーを浴びることで、これから何かをするのだ、と肉体を納得させることができます。外的生活と内的生活は常に共にあらねばなりません。しかし究極は外的なものではありません。究極は内的アスピレーション、私たちの内側にある燃え上がる炎です。自分のアスピレーションを自覚する必要があり、常に内側へ行き自分の意識の一番高いところまで飛んでいかなければいけません。 花やお香や瞑想の前に体を洗う事は純粋さを持つ助けになります。体を純粋にする事はスピリチュアルライフで最も重要なことです。純粋さの中に神の呼吸が宿ります。身体的な純粋さが欠けていたら、神性があなたの中で呼吸するのは全く不可能になります。純粋になるには、体を清潔にする必要があります。外的世界での「清潔さ」とは、内的世界での「純粋さ」のことです。ですから時間に関わらず、瞑想を始める前にはシャワーを浴びる、または目と耳と鼻と足を冷たい水で洗ってください。さらに可能なら、純粋な雰囲気を作るため、花とお香を使ってください。

質問: 瞑想するときは一人で行うべきですか。環境は何か関係がありますか。大勢の中で瞑想することを勧めますか。もしくは一人きりで閉じこもり瞑想したほうがいいと思いますか。

シュリ・チンモイ: 瞑想する人は聖なる勇士のように振る舞わないといけません。奉仕しつつ導かなければなりません。人類の中の神性に奉仕しているのです。ヒマラヤの洞窟に籠ったりはせず、世の中に向かっていかなければなりません。ここで人々の中にありつつ神聖な勇士の如く振る舞うのです。人類は神の分かちがたい一部分です。人類を脇に追いやっても神性に到達することはできません。神性と人類は切っても切り離せないからです。

私たちに必要なのは変革です。今あるがままの世の中を受け入れます。受け入れなければ変革する事はできません。陶芸家が土の塊に触れなかったら壺にしていくことはできません。周りの世の中は完璧ではありません。そして私達自身もまた完璧ではありません。完全に完璧にはまだなっていませんが、瞑想を通して完成していきたいと思っています。自分のかけがえのない手足である兄弟姉妹の皆を捨て去ることができるでしょうか。自分の腕を捨てることはできません。同じように魂から献身的に瞑想する時、人類を自分自身のものとして受け入れなければなりません。

今人類の状態は完成からは程遠いところにあります。しかし私たち自身も人類の一員なのです。ですから自分と共に人類を携えて行かねばなりません。他の人より一歩進んだところにいて、皆にインスピレーションを与える立場にあるなら、それは後に続く人たちの内なる神性に奉仕する機会に恵まれたということです。人類の中の神性へ献身することで、この世の様相を変革しなければなりません。瞑想は逃避ではありません。瞑想とは人生全体を受け入れることです。この世で神聖な真実を最高に体現するため変革する、という思いを持ちながら。

質問: 横になって瞑想してもいいですか。横になるのがリラックスするには一番ではないですか。

シュリ・チンモイ: 瞑想では確かにリラックスする必要があります。何年も瞑想してきたスピリチュアルな人で、自由に瞑想できる人なのであれば、横になって何時間も瞑想するのは何も問題はありません。しかし初心者、つまり瞑想がまだ上達していない人にとっては、横になることは問題です。このような瞑想はダイナミックでも動的でもありません。血液の流れがきちんと機能しないし、非常に微細な一種の眠気が襲ってきます。しかし座っていれば眠気に襲われることはありません。横になる行為そのものが意識のない世界へと私たちを誘うのです。そして次に、本当に心からダイナミックに瞑想していると感じます。しかしこれは間違いです。私のいとこの一人は、今25歳か26歳になりますが、このいとこはかつて、毎晩横になり少なくとも10時間は瞑想すると言っていました。姉たちが彼女の部屋に入るといびきをかいていました。髪の毛や鼻を引っ張ったりしても起きる事はありません。そして次の朝になると、一晩中瞑想していたと言うのです。これは意識的な瞑想ではありません。無意識に自分が瞑想していると感じていたのでした。瞑想はとても良いことですが、このような横になってする瞑想は、自己の精神性について自分をごまかすことにつながります。座ってあるいは立ってでもいいので瞑想する方がより良いです。歩いて行ったり来たりしながらも瞑想できます。かつて私も兵士の行進の如く非常に早く歩きながら、とてもリラックスして2、3時間あるいはそれ以上瞑想したものでした。

機械二台

```

父上、

たった二台、機械が欲しいのですが。

「気遣い」機と

「慈愛」機です。

「息子よ、

おまえは機械が二台要るが、

私が欲しい機械は

たった一台:

『明け渡し』機だ。

ギブ・アンド・テイクで

公平に行こう。」

```

質問: 座って瞑想している間、心地いい感じやリラックスした感じにならないのですが。

シュリ・チンモイ: 誰でも瞑想できる部屋は持っているでしょう。家やアパートを所有してはいないかもしれませんが、自分の部屋はあるでしょう。その部屋の一角に座って瞑想できるシュラインを持てばいいのです。体が心地悪いと感じれば姿勢を変えるので、そこから心地良い状態でい続けるのはあなた次第です。落ち着きのなさがあると、リラックスした感覚はすぐになくなってしまいます。あちらからこちらへと常に動いていたら、リラックスすることはできません。リラックスした状態を保つには体の中に静けさを保ち、とにかく落ち着きのなさがないようにします。

質問: 瞑想するのに最も心地の良い姿勢は蓮華座でしょうか。

シュリ・チンモイ: 蓮華座が一番心地が良いと言う人もいれば、そうではないと言う人もいます。蓮華座の一番良いところは背筋をまっすぐにしておけることです。それを除けば、蓮華座だから体がリラックスできる、ということでは必ずしもありません。蓮華座で2時間あるいは3時間そのままでいることは可能でしょうが、4時間、6時間、8時間と瞑想したければ、蓮華座でそんなに長く座っていることはできないと思います。しかし他に体をリラックスさせておく方法はたくさんあります。例えばリラックスして歩いたりリラックスして座ったり、などです。

質問: 集中と瞑想に関する本を一冊読んだのですが、瞑想中の東西南北の向きに注意を払うべきだと書いてありました。精神的なこと、静かな生活を望むなら、いつも北を向いた方が良い。俗世的なことを望むなら、東を向いた方が良いと言っています。

シュリ・チンモイ: それはその人によるでしょう。ただ神だけを悟りたいと願っている誠実な精神的探求者は、特にどの方角も不要です。そのようなインドの伝統的理論の遥か上をいく必要があります。神を悟るため実際必要なのは、一番純粋な意味でのアスピレーション(熱望)です。

質問: 内的な規律について教えていただけませんか。

シュリ・チンモイ: 規律は内側からこないといけません。外的規律は必要ですが、内的規律がなければ外的規律に価値はありません。外的には静かで落ち着いていても、内的にいろいろな悪い考えを抱いていることもあり得ます。 精神的規律を求めるなら、集中法を学んでください。集中は自己を律していく上で最も重要です。毎日食事をし、毎日学校へ行きますね。同じように毎日欠かさず集中の練習をするべきです。何に集中するのでしょう。心をかき乱し破壊的な生命ではなく、充実の生命に集中します。あなたの生命を築いてくれるものは何でしょうか。神への叫びです。世の中を所有したいと思っても自身を律することはできません。ただインナーパイロット(内なる操縦士)、つまりスープリーム(至高なる存在)に所有されたいと思うのであれば、それで初めて自分自身を律することができます。

質問: 瞑想を始めるのに自力で自分を律するのですか。それとも喜びを持って始めれば良いのですか。

シュリ・チンモイ: 魂は神聖な神の一部分であり、ただ喜びと明るさのみの存在です。さて規律の中で瞑想を始め、体をひどく直立硬直させ、悪者の猿に今にも噛み付かれつねられそうだと言わんばかりにしていたら、それは間違いです。そのようにしても恐怖感が湧き、自分を緊張させ続けるだけです。瞑想するときは背筋をまっすぐにしてリラックスすべきです。一番良いのは蓮華座で瞑想することですが、それができなければ椅子に座ればいいでしょう。 神は愛と喜びだけの存在です。神に満足してもらい、神とひとつになるのに一番効果的な方法は愛を通して神の元へ行くことです。愛があればそこには喜びもあります。お父さんのところへ行くのに自分の手や腕を切り落として、どんなに自己を律することができるか証明する必要はありません。それは規律ではありません。規律は自然に湧き上がる愛を通してやってきます。自分の神聖な資質が前面に出てくるようにしてあげると、魂が自然に外的生活の面倒を見てくれます。ただ奥深くへ行きそこから魂の持つ安定を持ってくればいいのです。魂の安定が前面に出てくると、落ち着きのない外的存在は自然に穏やかで静かになります。ですからいつでも内的喜びで瞑想するようにしてください。

三人の息子

```

三人の息子:

末っ子、次男、長男。

末っ子は

「父上は天にいる」と言った。

次男は

「天の御国はあなたの心の中にある」と言った。

長男は

「私と父上はひとつだ」と言った。

父なる神は末っ子に

「息子よ、洞察をありがとう」と言った。

次男には

「息子よ、使命をありがとう」と言った。

長男には

「息子よ、結合をありがとう」と言った。 ```

質問: 瞑想中は、考えを拒絶するのですか、それとも考えるのですか。

シュリ・チンモイ: 考えには二種類あります。神聖な考えと神聖でない考えです。神聖な考えなのであれば、大きくならせて大丈夫です。種に若木になってもらい、最終的には巨大なバンヤンの樹になってもらいましょう。神聖でない考えは完全に拒絶する必要があります。その考えが神聖でない場合破壊するか、もしくは自分に十分な力があるなら、変革します。闇を光に変革する力があるならば、そうすべきです。しかしそれが不可能なら、常に光のある部屋に留まるようにしなければいけません。 残念ですが神聖でない考えがいつも入ってくるのが、初心者の場合には見受けられます。恐れ、疑い、嫉妬心、偽善がシーカーの熱望の人生に入ってきます。ですから初心者は瞑想中に容赦なく、全ての考えを拒絶することが勧められます。神聖で熱望に満ちた、霊的な考えを15分間心に抱いたかと思うと、ほんの一瞬のうちに神聖でない考えが入ってきて瞑想が台無しになってしまいます。初心者にとって一番いいのは、良い考えも悪い考えも、瞑想中は一切入れないようにすることです。

何している?

```

神様、

今日は天国で何していますか?

「息子よ、

今日は君に君のやり方で満足してもらうことにした。

本当だよ。」

「息子よ、

今日は地球で何している?」

父上、

今日私は父上に挑み

父上に劣らない者になることにしました。

本気ですよ。 ```

質問: 瞑想ができるようにマインド(頭)を空にするにはどうしたら良いのですか。

シュリ・チンモイ まずアスピレーションを持たないといけません。それからマインドを静かに空っぽにします。マインドに考えが入ってきて形作られるのを許してはいけません。例えばある名前が浮かんだとしましょう。最初の一文字が現れたらすぐにその名前を抹殺してしまってください。マインドをできるだけ空っぽに無心にしないといけません。

質問: どうしたらそうできるのですか。

シュリ・チンモイ: 集中力を使ってします。例えばある考え、振動、または何か他のものが来たとします。直ちに矢を放ちその入ってきたものを粉々にしてください。ある考えが入ってきます。ある人の名前が入ってきます。またはある考えが浮かびます。直ちにそれを投げ捨ててください。あなたのマインドに入ってきてはいけないのです。マインドに触れる前に、粉々に切り刻んでしまってください。しかしもしもうすでに内側に考えや思いがある場合、あなたの体の中、マインドの中にある場合は、次のように瞑想してください。できるだけリラックスしましょう。海の中にいるように感じてください。そしてその考えや思いを吸収して、独立した存在ではなくなるようにしてください。すると海の中になくなってしまいます。考えや思いが既にあなたの中にあるならば、海の中に投げ込んでください。外から来たものであるなら、中に入ってこないようにしてください。このようにすれば、瞑想は絶対に実を結ぶでしょう。

質問: 最初に集中の練習をせずに瞑想をすることはできますか。

シュリ・チンモイ: 集中を通さずに瞑想を学びたいのであれば、自分の内的な部屋の扉に立っていると感じてください。扉のところに立ったら、自分の友達だけ部屋に入ってくるのを許してください。知らない人や敵を入れてはいけません。 良い思いや神聖な思いだけを歓迎するのです。こういうものがあなたの真の友達です。神聖でない思い、邪悪な思いはマインドの中に入ってきてはいけません。あなたのマインドは常に思考を受け取とっていますから、非常に注意しなければいけません。ただ神聖な思いだけを歓迎してください。そしてその思いと遊んでください。神聖な思い達にマインドの庭で遊んでもらいましょう。神聖な資質、神聖な愛、神聖な力、神聖な平和、といった思いと遊びましょう。遊び、大きくなってもらいましょう。遊びながら、あなたは真実の神聖な側面になっていきます。すると、自分の中で神聖な思いとだけ遊ぶことで、思考が無いというのがわかる時が来ます。あなたの存在全体が内的神性で溢れることでしょう。そうなると、あなたの意識はただ受け取ろうとします。その時何が降りて来るでしょうか。何があなたの中に入ってくるでしょうか。溢れる真実、溢れる光、溢れる愛、全てが無限に入ってきます。

質問 私はミュージシャンなのですが、貴方の言われる集中について知りたいと思っています。音楽を学ぶ中で、相当な集中力が必要だと分かってきます。どうやって集中力を発達させたらいいでしょうか。

シュリ・チンモイ: あなたの言われる集中とはどういう意味ですか。

質問: 私にとって集中とは自覚です。集中できればできるほどその対象について自覚しており、すべての詳細をより把握することができます。十分に集中していないと、完全にその対象を理解することができません。集中とはまた、自分自身を少し脇に置いておくことだとも思うのですが、貴方がどう思われているか知りたいです。

Sri Chinmoy: 集中は自覚とは違います。桁外れの集中力を目指すなら、以下を試してみてください。ある考えを生き物だとしてみてください。そしてそれを自分の目の高さの壁に置いてください。考えを使うのが少し難しければ、何か物を選びそれを壁に置いてください。目を開けていて下さい。いつでも集中は目を開けて行う方がより良いのです。その物を見て集中し始めてください。そしてその物体に入っていってください。自分の注意を全てそこに向け、その物体を貫き反対側に行ってください。反対側に行ったら、そこから集中を始めてください。あなたはそこにいるのですが体はこちらにあります。反対側から集中を始めあちら側から自分自身の体を見るのです。

まずある物に注意を向けて集中し、その中に入っていき、そしてそれを超えたところに行きます。この時あなたは見ている者(シャクシプルシャ)となります。これが本物の集中です。瞑想の秘訣です。これがわかれば本当に効果的に集中できます。

質問: 自分を見ている者になることが秘訣なのですか。

シュリ・チンモイ: そうです。

質問: 非常に難しそうですよね。

シュリ・チンモイ: 難しいです。

質問: あたかも向こう側にいて自分自身を見てるような感じなのですか。

シュリ・チンモイ: そうです。しかしまず最初にその物に入っていき、それからそこを超えたところに行かないといけません。そして自分自身に戻り、見ている者となるのです。

なぜ隠れるの?

```

主よ、私が探すと主は隠れる

私が探すのは

主なしで命の炎は燃えないし、燃やすこともできないから

主よ、ねえ、教えて

なぜ隠れるの?

「娘よ、なぜなら私が隠れることは

君の探求を激しくし

君の愛という行為を満たし

君の達成に栄誉を与え

君の悟りを不滅にするからだ。」

```

質問: 集中力を上げて、一つの考えにマインドが集中していられるようにしたいのですが。

シュリ・チンモイ: 瞑想を始める前に神の名「スプリーム」をできるだけ早く20回ほど繰り返してください。まずスプリームと繰り返すことで呼吸を浄化します。呼吸の純化が必要で、呼吸が浄化されるまでマインドはあちこちへさまよい、一点集中ができません。呼吸が浄化できれば、マインドは落ち着きのない猿のように振る舞うのをやめます。

それから、自分の内的神性に集中してください。いつでも神と共に、神性と共にあれば自分は安全だと感じるようにしてください。人間的で神聖でない資質に対して、神と自分の内なる神聖な資質に対抗してもらいましょう。「神」と言う言葉を使う時は、自分の神への本当の愛を感じるようにしてください。集中しているときは、自分が本当に神に成っていっている、まさに神の呼吸になっていっていると感じてください。そうすれば絶対に集中から何かが得られるでしょう。

次に写真に意識を集中してください。私の写真を見てもいいし、鏡の中の自分自身を見ても構いません。自身が鏡に映った姿に集中するのなら、自分が見ているイメージに入っていこうとしてください。自分が見ている肉体の存在と完全にひとつなのだと感じてください。そこから育っていこうとする必要があります。どうやって育っていくのでしょうか。神はあなたを求めていて、あなたは神が必要だ、という思いと共に育ちます。「神は私を求めている、私は神が必要だ。神は私を求めている、私は神が必要だ。」と繰り返してください。以上です。するとゆっくり段々と着実に神聖な思考たる神があなたの中へ入ってきて、あなたの内側と外側の存在に行き渡るのがわかるでしょう。そしてマインド(頭)、バイタル、体の中を純粋にしてくれるのがわかるでしょう。

質問: 本の一章を勉強しなければいけない場合、今言われた集中の仕方をどう応用したら良いのですか。

シュリ・チンモイ: 一行一行するのではありません。一章に集中するということは、何頁にもなります。しかし一度に見ることができるのは2頁です。ですからこのようにしてください。覚えなければいけない頁が10頁あるとします。ただその部分を広げ、読まずに手に持ってください。ただその頁の中に入っていきそれを超えてください。普通の方法で読み始める前に、一語一語あるいは一行一行と読み始める前に、ただ集中してそれを全体で一つのものと捉えてください。行が散らばっている、何行もある、とは捉えないのです。そうすれば集中は非常にうまくいきます。暗記するのが非常に簡単になります。ここで「見ている者」は集中をするその人です。私は生徒だった時、14歳か15歳の時でしたが、集中の力を使って一度に30頁から40頁を暗記していました。先生には「どうやって暗記したの?」と聞かれたものです。もちろん色々なやり方でできました。サンスクリット語にこのためのマントラがいくつかあります。このマントラを4、5回繰り返せば、どんな詩でも2回繰り返したら、それが14行、16行、または20行の詩であろうと、簡単に暗記できます。

質問: そのマントラを教えてください。

シュリ・チンモイ: 私が生徒だった時フランス語を勉強しないといけませんでした。姉の一人が私のことをとても可愛がってくれ、冗談もよく言い合いました。20行位のフランス語の詩を一篇覚えなければならなかったのですが、末っ子だったので、自然と自慢して

「見て、できるよ!」と言っていました。

姉もフランス語が得意でしたが、

「絶対できないわよ。」と言われました。それで、

「じゃあ、何でもいいから詩を見せて。2回だけ読んで覚えられるって証明できるよ。」と言い返しました。

姉は本を一冊持ってきて、16行あるとても難しい詩を選びました。

「本当に2回だけしか読んでないって証明しないとだめよ。声を出して読んで。でないと、黙読したら何度読んでいるかわからないでしょう?」

「まず1分時間をちょうだい。読む時は2回音読するから、その前に集中する時間をちょうだい。」

そして姉の前で集中したんです。そして、

「じゃあ詩を見せて。」と言いました。姉は本を持ってきて私は2回だけ読み上げ、その後暗唱しました。姉はとても喜びました。

「じゃあ今度は私にやり方を教えて。」

「教えられないよ。」

こう言ったのは、自分の内的存在、または神から言われない限り、このようなことを教えるわけにはいかないからです。姉は最愛の存在だったけれど、彼女に教えることは許されていなかったのです。他の事なら姉に人生全てを捧げることができるけれど、これを教えるのは許されませんでした。一度このマントラを友達の一人に教えました。本当に普通の友達でした。生徒だったけれど、暗記するのがとても大変だと感じていた友達です。分かりの遅い子だったので教えてあげ、この知識を与えました。神がそうしてほしいと頼んだのです。そうでなければできませんでした。

質問: 毎回より良い瞑想をするにはどうしたらいいですか。

シュリ・チンモイ: 運動するたびに筋肉がどんどん強くなっていくとわかりますね。ある日腕立て伏せが一回できたなら、次の日には二回やろうと思います。そのように毎日回数を増やしていき、30回か40回腕立てができるようになります。やがて50回できるようになる日が来ます。仮に50回があなたができる最大限、最高回数だとします。すると何が起こるでしょうか? スープリームの恩寵が51回できるようにしてくれます。オリンピックの世界記録を見てごらんなさい。全部破られています。4年前のオリンピック記録が見事に玉砕しています。このように自分が以前に達成したことを超えるため、毎日練習する必要があります。 自分の瞑想をより良くしたいなら、その必要性、神聖な必要性を感じないといけません。神にどれだけ近くなっていきたいですか。神の意識の中にいつもいたい、完全に神と融合したいという内的叫びが必要です。そのような思いがあるなら、今日は神まで100歩離れたところにいるけれど、明日はあと99歩になると思うようにしてください。

質問: 瞑想は私たちの責務ですか。

シュリ・チンモイ: そうです。朝の瞑想でスプリームの使命に対して毎日責務を感じるようにしましょう。すべての行為を至高の責務に向けるのです。外的世界で日中仕事をしている時、アスピレーションを持つのが自分の責務だと感じないといけません。何分間神聖な意識にいられるか自覚してください。仕事で生活費を稼ぎ家庭の責任に注意を向けることはあなたの責務です。しかしそれだけでは不十分です。これはあなたの人間的責務だからです。自分のマインドを働かせている間、意識を神に向けているなら、神聖な責務のことを考えているということです。神聖な考えと神聖な行動が共にある時、神聖な考えは先駆者のように働き、行動がすぐについてきます。そして直ちに責務が遂行されます。自分の外的行動は神聖な考え、神聖な知識、神聖な光に鼓舞されたものだと感じてください。そうすれば神聖な責務になります。そうでないと、スピリチュアルな観点から言うと時間の無駄使いになってしまいます。

質問: 献身は瞑想だ、と言われるのはどういう意味ですか。

シュリ・チンモイ: 誰に献身するのでしょうか? 自分が何かを与えている、人助けをしていると感じるなら、これは献身ではありません。献身とは相手の内側に神の意識的存在を感じることです。あなたが働くと同時に神の意識的存在を感じているなら、この献身は瞑想の一つの形です。しかし神の存在が見えないのに、その人を鼓舞したり助けたりする能力があると思っているなら、それはエゴのなせる技で、その人より自分の方が内的富がたくさんあると慢心しているだけです。何かをしていて、と同時にその務め自体に神の存在を感じるなら、その献身は瞑想です。しかしただ自分のエゴのため、その人より自分の方が少々良いあるいは優れているので助けてあげるのだと思うなら、それは献身ではありませんし、真の瞑想とは全く違います。

質問: しばらく瞑想した後に休みを取り、後でまた旅路を続けたいと思ったらどうなるのですか。

シュリ・チンモイ: 普通の生活では、1キロ行ったところでしばらくそこに留まり、休んでから旅を続けることは可能です。しかしスピリチュアルライフではそのようにはいきません。スピリチュアルライフでは、いちど休むと疑いが入ってきます。恐れが入ってきます。猜疑心が入ってきます。様々な後ろ向きな力があなたの中に入ってきて、可能性を全て台無しにしてしまいます。最終的には神を悟る、というあなたの潜在力は同じです。しかしかつてあった可能性、黄金の可能性は失ってしまいます。瞑想を止めてスピリチュアルライフを離れると、成し遂げた前進は破壊されてしまいます。周りの皆があなたから良い振動を受け取ることはありません。インスピレーションを受け取ることもありません。魂の微笑を皆に与えることもできなくなります。昔のやり方に戻り無知に負けてしまいます。しかしあなたがした前進の本質は魂の中に残ります。本質は決して失われる事はありません。外的な生活でそれを使うことができないとしても。今までに遂げた成長の真髄はあなたの心の中に残り、5年か10年してまた瞑想したくなったら、あるいは来世で、この真髄が前面に出てきます。もう一度スピリチュアルライフに入りたいと神に本当に誠実に祈るなら、あなたの以前遂げた成長が人生で大きく浮かび上がってきます。 ですから常に用心深く、ゴールに向かいなるべく早く走ってください。レースに勝つまで止まってはいけません。そうでないと無知に引っ張られ、出発点まで引き戻されてしまいます。

質問: 時々は祈られますか。

シュリ・チンモイ: 実は正直なところ、祈りません。そして瞑想する必要もないのですが、弟子のために瞑想をします。至高の真実を悟った後は、祈る必要も瞑想する必要もなくなります。しかし弟子が数百人いるので、かつて20年以上前自分のために瞑想したように、弟子のために瞑想しています。弟子に瞑想するときは、自動的に祈りもそこにあります。というのも、私は弟子たちの霊的な目覚め、霊的なアスピレーションと悟りを助けようとしているからです。深い瞑想では、祈りがそこにあります。

質問: 瞑想するだけの辛抱がない人が、催眠術や自己催眠の方法を使ってマインドを静かにさせ、魂を前面に持ってくる方法はありますか。

シュリ・チンモイ: 催眠術を使って瞑想にアプローチしようとするのは危険で、良くないことです。それより良い方法は自分の奥深くに行くことです。催眠術では自分自身の中へは行くことができません。その人の他のすべての部分、つまりハートとバイタルと身体が一緒になり本当にその人の魂の中へ深く入っていく時、マインド(頭、思考)を静かにできる可能性が出てきます。しかし人間のマインドが魂を説得することはできません。魂はマインドの言うことに注意を引く理由は何もないのです。魂は強要しません。魂には無限の忍耐があります。しかし時に、それが神の意思であるなら、身体、バイタル、ハートがマインドの働きを強制的に減少させてしまうことはできます。

質問: 瞑想中痛みを感じますか。何か痛みはありますか。例えば誰かに殴られたらその痛みを感じますか。

シュリ・チンモイ: 最高レベルの瞑想であるなら、何も痛みは感じません。なぜなら、その時は体ではなく魂の中にいるからです。意識が身体にあるならば、誰かにつねられたらすぐに痛みを感じます。しかし魂の中にいたら、影響されません。魂は私たちの内側の神聖な部分であり、神聖な光であり、神の代理です。この魂は動揺もしなければ破壊もされません。私たちの中にある不滅のものです。最高の瞑想をしている最中は、身体の中ではなく、魂の中にいます。魂とひとつになります。 ここで私たちは無知の中に生きています。ですから誰かに殴られることが有り得るのです。しかし光の中にいる人なら、迷惑をかけてくることも、邪魔してくることもありません。決してつねったりもしません。それどころか私たちが瞑想しているのを見て、一緒に瞑想しようとやってきます。なぜなら私たちが何か良いことをしている、神聖なことをしていると感じるからです。当然その人自身も神聖な子供になりたくて、同じようにしたいと思うのです。

できたら

```

できたら

あなたのことを神に話すよ

できたら

あなたと会って話してくれるよう

神に請い願うよ

できたら

あなたの長く厳しい道のりを平易にしてくれるよう

神に頼むよ

できたら

あなたに溢れる蜜を与えてくれるよう

神に頼むよ

```

初版編者はしがき

世の神秘家たちが高い光明と法悦の境地に達するため常に瞑想を実践してきたのは、真実の探求者(シーカー)なら周知のことである。精神の高みを熱望する者にとって、瞑想は不可欠だ。それ自体が道だと言っていい。瞑想はただの規律や技術ではない。精神的意識の宇宙に絶えず広がり続ける経験だ。しかし瞑想が連れて行ってくれる高みに登るには、今いる地上から一歩一歩上に向かって歩を進め始める必要がある。 本書ではシュリ・チンモイが瞑想の初心者からの質問に答え、瞑想法を基本的に教示している。著者はまた、全包括する自らの内的ビジョンに基づいて、それぞれのシーカーが瞑想中にする多くの鮮明な経験について解説している。

From:Sri Chinmoy,瞑想:神が話し、私が聞く, part 1, Vishma Press, 1974
https://ja.srichinmoylibrary.com/mgs_1 より転用