さて、瞑想する時はいつでも、幾らかの強さ、内的強さを得たと感じるようにしてください。そしてこの強さは確かなものです。頭の中で作り上げているわけではありません。10分瞑想してから出かけたとします。もし2人の人が喧嘩しているのを見かけても、その人たちの中にあなたの内的平和が入っていくことはないかもしれません。その人たちは今別の世界にいるからです。しかしその内的平和はあなたを守ってくれるのに十分な力を持っています。影響されない、ということです。その人たちに残酷または無関心でいるということではありません。もしそうだとしたら、あなたはその喧嘩している人たちより悪いことになります。傷つけ合ってるその人たちに同情を寄せないわけではありません。そうではないのですが、その人たちが喧嘩しお互いを苦しめているのを見て、何かドラマか劇のシーンを見ているようだと感じるのです。あなたの内的存在、つまりあなたの中の真の真実は影響されません。一方でその人たちが何か間違ったことをしているのが見えます。もう一方で、あなた自身はその間違ったことをしていないのも見えます。
スピリチュアルライフを歩んでいない場合何が起こるかというと、すぐにどちらかの味方をします。「この人は誠実だ、この人が悪いんじゃない。本当に悪いのはもう一人の方だ。」と思うのです。または自分自身の中に一種の神聖でない資質を持つことになります。自分の内側から、神聖でない攻撃的な資質が前面に出てくるのがわかります。もし自分も強かったら誰かを殴るのに、と思うのです。神聖でない人を見ると、自分が精神的でない場合、いやたとえ精神的であっても、自分自身の神聖でない資質が前面に出てくることがあります。しかし真に精神的であるなら、自分自身の精神的資質が前面に出てきて、神聖でない資質を使い言い争ったり喧嘩したりしているその人たちの中に、その神聖な資質が盗人のように入っていこうとします。
自宅を出て世の中に入っていく際は、よく守備を固めていないといけません。鎧で固めるのではありません。神聖な考え、神聖な思い、神聖なゴールで自分を守るのです。ゴールがあればたちまち、そのゴールにだけ向かって歩きます。我々には運命のゴールがありそのゴールに向かって走っています。見ている人がたくさんいて、時には馬鹿にされたりもします。そんなスピードじゃだめだと言われたり、いろいろなやり方で馬鹿にされます。世の中はそんなものです。皆と同じように振る舞わないと、すぐに無関心だ、あるいは頭がおかしいと思われます。しかし自分のゴールがあるとわかっていて、その運命のゴールへ走っているなら、その人たちが何を言い、どんな人生を送っていようと、影響される事はありません。自分の中の神聖な部分が守ってくれると同時に、無知の快楽を貪っているその人たちに光を少し捧げたいと思うため、その人たちはいくらかの光を得ます。
しかしそのためには早朝に瞑想する必要があります。皆が瞑想しなければいけません。精神的探求者にとって早朝の瞑想は最も重要です。朝の瞑想をせずに出かけたら、自覚があれば、吠えるライオンに立ち向かっているようだと絶対に感じます。しかし非常にしっかりと確かな瞑想をした後で出かけたら、犬、そう、最も忠実な犬が自分の後をついてきていると感じるでしょう。内的存在が不屈の平和、光、力で溢れているからです。瞑想を携えて行かないのなら、吠えるライオンに貪り食われてしまいます。非常に良い瞑想の後で出かけるなら、熱望の世界、果ては苦しみや鬱や失望の世界までもが、自分の中に何かを見出していると内的に感じるでしょう。私たちについてこようとするのです。渋々そうする時もあれば、喜んでの時もあれば、強欲からの時もありますが、とにかくどうにかして犬のようについてこようとするのです。From:Sri Chinmoy,瞑想:神が話し、私が聞く part 2, Sri Chinmoy Lighthouse, 1974
https://ja.srichinmoylibrary.com/mgs_2 より転用