弟子が私の所へ来て「まだ自分の瞑想のやり方を見出していない」と言い、その弟子が誠実だと言うことがわかったら、会いに来るよう伝えます。その弟子と何分か一緒に瞑想し、どうやって瞑想したらいいのか教えます。その瞑想はその人のためだけのものです。完全にプライバシーは守られます。その弟子が他の人にその瞑想を教えたところで私はどうもしませんが、ただその弟子自身、損をします。瞑想中はそれぞれが自分の道を行かなければなりません。一人一人にそれぞれの役割があるからです。この世で満たすべき特別な使命があるのです。神の神聖なリーラ、つまり宇宙の戯曲で、全員が王様や女王様を演じるわけにはいきません。一人一人にそれぞれの役割が振り当てられています。そしてその役割を全うするためには、自身の内的必要性に応じて瞑想しなければいけません。
シーカー(真実の探求者)の中には、自分に実際必要なのは神への愛と献身だと感じる人もいるでしょう。そのような人たちは、神の近くに行くのに知的世界に入る、つまりマインドを通して行うのは時間の無駄だと感じます。このようなシーカー達はハートで祈ります。しかし、マインドで祈るのが好きな人たちもいるかもしれません。端的に言えば、もし神と非常に親密になりたいなら、子供が母親にするように、ハートを通して神の方に行かねばなりません。どの領域で何が起こっているのかなど、神の知識と智慧が欲しいのなら、マインドでアプローチしなければなりません。
その人が神へ到達し、神を自分のものとしたら道は終わります。その時「自分はこの道を来た。あの人はあの道を来た。」とは言いません。一度神の意識の中に入ったらすべての道の恩恵を手に入れます。つまり、私は献身の道を歩み、あなたはマインドの道を歩んだとしても、究極のゴールに到着すれば得るものは同じです。しかし自分の性質に応じてある一つの道を歩むべきです。いろいろな道があります。あなたはあなたの道を、私は私の道を行くのです。しかし究極的には同じゴールに到着します。From:Sri Chinmoy,瞑想:神が話し、私が聞く, part 1, Vishma Press, 1974
https://ja.srichinmoylibrary.com/mgs_1 より転用