苗木、つまり子供だった時、両親、お祖父さんお祖母さん、ひいお祖父さんひいお祖母さん皆に可愛がられました。成長して、周りにインスピレーションを与える存在になりました。
私たちはいつも「遠い未来」の話をするけれど、「輝ける過去」もかつては「遠い未来」であったことを忘れてはいけません。輝ける過去で、高齢者は小さな子供でした。家族の大きな喜びでした。高齢者に敬意を払わなければ、その慈愛、愛情、優しさ、智恵を受け取ることはできません。彼らをないがしろにすることは過去から切り離してしまう行為です。木を二つに割ってしまうように。木を切ってしまったら、生き続けることはできません。木が健康で生き続けるためには、根も枝も葉もしっかりついたままでいる必要があります。この同じ木が、老木になる数年前までは美しい花や美味な果実をつけていたのですから。
また、高齢者はその家族に誉と経済的安定をもたらしてくれました。ないがしろにするなどとんでもありません。世界家族全体への貢献を称え、新たな感謝の心で高齢者を理解し、称賛し、敬愛するべきです。高齢者の皆さんの存在そのものからインスピレーションを受け取ります。そしてこれから40年後、50年後に、今の若い世代も同じく将来の若者達にインスピレーションを与える存在になるのです。ヨハネ・パウロ二世はある人にとっては友、ある人にとっては父、またある人にとっては祖父であられました。友として、人々に人生の真の意味を理解してほしいと願っておられました。人生の真の意味は慈愛、気遣い、思いやりです。
父として、道徳心に欠ける者達に対し厳しくあられました。真実の法則に従わない人たち、権力や支配力に貪欲な人たちに対してです。自らの霊的な子供にあたるそのような人たちに警告されたのです。人類に対する気遣いがなければ、やがて非常に深刻な危機が訪れるであろうと。人類の水準は向上するどころか奈落の底に落ちてしまうだろう、と。
祖父としての教皇は愛情一杯であり、人々に対してある程度甘いお祖父さんであったと言えます。人間は弱いものだと感じられたのです。もし厳しくしたら、逆効果になるかもしれない。すでに非常に弱い人たちに対しては、とてもゆっくり進む必要性を感じられました。その人達に対する心遣いは限りなかったので、少し甘やかすぐらいの方が、やがて光に対して目覚める助けになると思われたのです。一度光の中に入ればもう、敢えて自分から深い無知の闇の中へ入っていくことはないからです。
ヨハネ・パウロ二世に、本当に限りない感謝を心から捧げます。毎回お会いする度、新しい経験でした。晩年、だいぶ弱られて手も震えておられた折にも、私の腕に愛情込めて触れてくださり、最高の慈悲で祝福して下さいました。
他の教皇と違われたのは、外的世界の活動で実践家であったと同時に、内的世界の最も崇高な高みの先見者でもあられたところです。内的ビジョンと外的活動が見事に相補っておられました。
マザー・テレサは貧しく助けを必要とした人々だけでなく、人類全体のためにあられました。無力で希望なき世界のため、心に血を流しておられました。人の命を救うため、犠牲の人生でした。マザーの命の船は「慈愛の岸辺」と「気遣いの岸辺」の間を行ったり来たりしました。この世で生を受けた時から恐れ知らずでした。
救世主イエス・キリストを限りなく信頼されていました。
私にとってマザー・テレサは、この瞬間は真の母であり、次の瞬間は真の姉でした。母として、祝福に満ちた眼差しで私を祝福して下さいました。姉として、慈愛に満ちた心で愛してくれました。
また、激励に満ちた方でもありました。一度でなく、二度でもなく三度も、一緒に中国へ行ってほしいと言われました。中国と中国の人々に何か素晴らしいこと、善いことをしたいと熱心に願っておられました。残念ながらこの希望は叶えられることはなく、成就する前に天に召されてしまいました。
最近中国に3ヶ月ほど滞在しましたが、一緒に中国に来てほしいと祝福一杯に頼まれたことを何度も何度も思い出していたものです。
マザー・テレサは大胆不敵、ひたすら愛と犠牲の魂でした。この世界の様相と運命を変えるには、マザー・テレサのような神に選ばれたしもべがもっと何人も、ひどく必要です。もう一つの要素もあります。当時新しいものは何でも奨励され支持されました。何か新しく、やりがいがあり、輝いていることに取り掛かり始めると、内側深くから励まされているように若者は感じたものです。しかし今日では、30、40年前のように大きく人の興味関心を引くことは何もないようです。
人は新しい光、新しい意識を必要としています。昔成し遂げたこと、言い換えれば「人生の泥沼」から抜け出したいと思っています。しかしどうしたら良いのかわかりません。過去には失望しています。そして今、未来を恐れています。新しいことを試みるのを嫌がっています。人生が確実性の欠如と恐怖に占拠されているからです。
ニューエイジ運動への傾倒は、過去の方がもっとずっと強力なものでした。新しいものは何でも歓迎すべきです。同じものが新しくあり続けることはないかもしれないし、不可能でもあります。何か新しいことを達成したい、新しいものになっていきたいなら、自分に厳しく内的な祈りと瞑想を行わなければなりません。
成功の鍵は決意と意志力です。進歩できるかは、神の意思に内的にも外的にも自分を明け渡せるかにかかっています。それは非常に魂を込めて祈り瞑想し、愛を込めて人類に奉仕する中で起こります。
一瞬一瞬、新しい夢、新しい現実、新しいインスピレーション、新しい向上心、新しい達成が運ばれてきます。今日他の人の中に善い資質が見えます。その善いところを素直に評価すれば、自分自身の人生で全く同じ善い資質が花咲き始めます。まるで蓮の花のように、段々とゆっくり、間違いなく。
祈りも瞑想もしなければ、他の人の善い資質の真価を認めることはほぼ不可能です。嫉妬の蛇に容赦無く攻撃されてしまうからです。
一つ一つの伝統がそれぞれに正しいのです。国際的な心を持つ必要があります。全ての伝統を認め、称賛し、尊重するために。全ての伝統を鼓舞し、激励し、照らし、満たす世界市民になるために。友情とは一体感が広がったものです。キリストは最高の神の子として、自身が「創造主たる神」の子だけではないとわかっていました。「創造主たる神」と「創造物たる神」はひとつだとわかっていたのです。
「気遣い、励まし、鼓舞」というような言葉に思いを馳せると、友情はこの上なく必要だと感じます。友情がなかったら、この世は日一日と忘却の海へ沈んで行ってしまうでしょう。
自分は自分だけの存在ではないという悟りに注意を払い、目覚めさせてくれるのが友情です。私たちは周りの人達、共にある人達、助けてくれる人達の一員です。自分の周りに全世界があります。ここで友情を築かないといけません。友情がなければ、世界は前進しません。後進するだけです。
「私と父なる神はひとつです。」キリストは創造主としてこう言われました。
そして創造物として「父よ、なぜ私を見捨てるのですか?」と言われました。創造物は創造主の助けをひどく必要としているからです。
創造物との一体感から、キリストは人類の苦しみを自分のものと感じました。この苦しみは全ての人によって分かち合うことができます。苦しみは存在しますが、その重荷を軽減しようと友人が来てくれると、皆が一体感の光を見る絶対の助けになります。心をひとつにする事は自分を広げることです。真の友情があれば、一体感が花開き、咲き誇ります。
キリストは最高の友でした。天国だけでなく、地球ともひとつになったのですから。
天の比類なき一員として、キリストは母なる地球に限りない慈愛を下ろして来ました。また、母なる地球の一員として、父なる天から受け取った慈愛を惜しみなく無条件に分かち合いました。世界の意識を持ち上げるために。そしてまた、ここ地球に光が、真実の確立を希求する光がある事を世の中に見せるために。
子キリストは受け取った。友キリストは分け与えた。
子キリストは天から受け取った。
友キリストは世界市民の友たちに、自分の持つもの、自分のあるがまま全てを祝福を込めて分け与えた。東洋は内省的であり、西洋は外向的です。
東洋と西洋が歩み寄れる場所があると思います。そこで両者は「私が、俺が」ではなく、「私たちが、僕たちが」と言うのです。詩は非常に微細でもあり得るし、と同時に非常に力強くもあり得ます。二つの語を圧縮することで、実に多くが語れます。詩が繊細で女性的な必要はありません。非常に力強くあることが可能です。繊細な語でさえ、力強くあり得ます。
CSC 9. シュリ・チンモイは1989年11月3日、詩について次の私見を述べました。↩
かつて私は無知の大海におり、マントラはサンスクリット語でしか書けないと思っていた時期がありました。当時は無知そのものだったのです。その後シュリ・オーロビンドの「サヴィトリ」を読み解いた時、叡知が下りてきて分かりました。マントラは英語でもまた作ることができるのだと。
英語圏の著名詩人の詩を何篇か読み、より深い叡知を得ました。このような英詩人たちは確かにマントラを作ったのだ、とわかり非常に大きな驚きであり喜びでした。他の言語でもマントラがあると確信しています。
今は、マントラはサンスクリット語に限られたことではないとわかっています。マントラはそれぞれの言語に、最も神聖な富として存在し得るのです。
CSC 10. シュリ・チンモイは2002年12月29日ニュージーランドのクライストチャーチで、マントラ(真言)について以下のように述べました。↩
質問: 特別な訓練が必要ですか?
シュリ・チンモイ: いいえ必要ではありません。ハートが完全に準備できているので、インドのスピリチュアルなやり方を受け入れるのに特別な訓練は何も必要ありません。質問: 正しい信仰が何なのか、何か基準はありますか?
シュリ・チンモイ: いいえありません。すべての宗教が神性を無限に包含していて、そのすべてをひとつだと捉えています。ただ私の場合、信仰宗教はたった一つしかなく、それは「神への愛」だと思います。私は私の力に応じて神を愛します。貴方も貴方の力に応じて神を愛します。また別の人もその人の力に応じて神を愛します。すべての宗教、すべての信仰は同等に真実であり、同等に神聖です。また一方で、宗教はたった一つ「神への愛」しかなく、それが普遍の真実です。質問: 貴方の希望が叶ったら、どんな世界になるでしょうか。
シュリ・チンモイ: 私の希望と世界がひとつになったら、誤解、紛争、対立、喧嘩、戦争などが全てなくなります。ただ調和が君臨し、世界の隅々にまで行き渡るでしょう。質問: この3、4年、マニフェステーションをするのが本当に大変でした。多くの弟子が、様々な理由で、スープリームに奉仕するためにしたかったことができずにきました。もう少し状況が良くなり、世の中ですべきことをできるようになるまで、どうしたらいいでしょうか
シュリ・チンモイ: 外的には諸般の事情で、今できないことがあります。しかし内的にアスピレーションを増やすことは可能です。外的にアスピレーション(切望)、献身、マニフェステーション(体現)があるように、内的にもアスピレーション、献身、マニフェステーションは存在します。先日チャールズ・オズグッドに「当面の間平和の仕事ができないでいます。」と言うと、すぐに「でも貴方達の精神、その精神は内的に働いているでしょう。」と言ってくれました。
そう、外的には諸々の理由で実行できないことがあります。しかし内的に自分自身のインスピレーションとアスピレーションを増やす事はできます。そして時が来たら、かつて行っていたようなことをより精力的に、より強力に、もっと満足のいく形でまたできるようになります。何かをするのに気が気でないと、不正な手段を使ってさえもやろうとしてしまいます。一方熱意は本当に神聖なものです。ですからいつでも熱心に熱意を持っていましょう。熱意があると、自然にゴールが自覚できます。
熱意があり、それが本物ならば、神の恩寵が自然に無条件に下りてきます。ですから一番良いのは、いつでも何か良いこと、神聖で輝き満たすことをしようと、熱心に熱意を持つことです。一番良い祈りはマインドではなくハートの中にあり、涙溢れる祈りでないといけません。そうすれば神は絶対に聞いてくれます。
ただ、神が願いを叶えてくれても、私たちが想像していたのとは違う形をとることもあります。自分の祈りがある方法で叶ってほしいと思っています。しかし神が私たちに喜び満足していたら、その願いを全く違う方法で叶えてくれるかもしれません。私たちの想像を遥かに超えるやり方で。その時本当に神に感謝の気持ちが湧きます。
何かのために祈っても、どのような形で結果や結末が来るのかはわかりません。ですから一番良いのはハートに涙を流し泣き叫ぶことです。このような祈りが、成就を促してくれます。何日間も、いや何ヶ月間も明かりがなかった部屋を思い浮かべてください。そこへ貴方が入って行ってスイッチをつければ、一瞬で明かりが戻ります。同じように、神の慈愛と許しの力に比べれば、貴方の弱さなど全く何でもないのだと感じましょう。
さてここで、貴方が同じ間違いを何度も何度もしているのに、どうしてそれを神が許す必要があるのか、という疑問が浮かぶかもしれません。今日ある悪いことをし、神に「ああ神様、許してください、許してください、許してください!」と祈ります。そしてまた明日になると、同じことをしてしまいます。唐辛子を食べる人のようなものです。「舌が焼ける! もう唐辛子は食べないぞ。」と思うのに次の日になると、また唐辛子を食べ舌をヒリヒリさせています。
質問に戻りましょう。もし内側に誠実な叫びがあるなら、何度間違いを犯そうと神は許してくださいます。しかし、同じ間違いを何度も何度も繰り返さない方が神は満足されると思いませんか?
確かに神の許しはいつでもそこにありますが、その間違ったことを一切断ち切ってしまった方が神は誇りに思ってくれます。すぐに全部やめるのが不可能なら、毎日貴方のマインド、そして外的生活でしている間違ったことの数を減らしていけばいいのです。自分の外的生活、内的生活でいくつ間違ったことをしているのか自分でわかるでしょう。数えてみたら良いです。そして次の日にはその数を減らせるかどうか試してみてください。そのように少しずつ数を減らしていくことができれば、全然間違いを犯さない日がやってきます。その時、神は喜んでくれるだけでなく、貴方のことをとても、とても、とても誇らしく思ってくださるでしょう。神の慈愛の力は、自分で犯してしまったと感じている大きな間違いより限りなく強力なものだ、ということを常に忘れないようにしましょう。仮にある要人と、15分時間を共にするとします。そのうち少なくとも1分間はその人のハートの中を見るように試みてください。目を開けていなくもいいのです。半分目を閉じていても良いのですが、意識はその人のハートに集中している必要があります。
何日か前、ラリー・マコナヒーをリフティングした時、「マインドにハートを与えないといけませんね!」と言われました。ですからマインドを使って世界を支配しようとしている要人がいたら、「ああ神よ、彼らにハートを与えてください。ハートを与えてください。」と祈るといいでしょう。静寂の中で、ハートを与えて欲しいと祈ります。そして1分間ほど、その人たちのハートの内側を感じ、自分の魂の師の存在を感じるようにします。師は涙を浮かべているか微笑んでいるかです。微笑んでいるなら、成功の日は近いということです。涙を浮かべているならもっと長く時間がかかるということです。しかしとにかく、このすべてを静寂の中で、祈りを通して行わなければいけません。
そのような世界レベルで意思決定をする重要な人物がマインドを使い続けても、絶対に失敗することになります。しかしハートを使えば最終的には成功します。ですからその人達の中にほんの少しでも進歩が見られたら、彼らがハートの中に留まって働けるようにと祈る力を、自分の中で増やしてみてください。体に愛情一杯、慈悲に満ちた思いを向ければ向ける程、体はそれを利用します。「ああ、もう50代後半なのだから、寝ていたほうがいい。体のために、少なくともあと15分は寝ていたほうがいい。」と思う人もいます。しかしこのような人たちには全く同意できません。その代わりに「いや、50代後半になったのだから、前より15分少なく休むべきだ。」と思うべきです。
このように体に対しては、前より少なく減らして、ではなく、前よりもっと多く活動するよう促さないといけません。体に「もっと休息が必要だね、もっともっと必要だ。」と言うのは間違った対処法です。そうしていたら、活動的になろうとしている時でさえ、体は言うことをきかなくなります。体に降伏してしまったら、墓穴を掘るようなものです。体は最初本当に嬉しがるかもしれませんが、同じ体が私たちの人生を完全に無用なものにしてしまいます。
確かにもう、1マイル(=1.6km)7分のペースで走る事はできないかもしれません。しかし1マイル10分でも11分でもいいので、まだ走れるなら、すべきです。体に好きなようにさせてしまうのはひどい間違いです。体の中でマインドが働いています。かつてマインドが体を使い最速で走っていた時がありました。今や同じマインドが体に「お前は役に立たない!」と言っています。かつてマインドは6時に起きて瞑想するよう命じていました。今や同じマインドが「早すぎる!」と言ってきます。やっと8時に目が覚めるとマインドは「遅すぎる!」と言ってきます。
ですから一番良いのはいつも体に厳しくあり、体の活動に対してより気を配ることです。「休みがもっと必要だ、もっと必要だ。」と言っていたら、内的に脆弱になってしまうだけです。そのような弱さは不要です。
しかしまた、賢くある必要もあります。休まないことで明らかに健康に影響が出ている、休まないことで弱くなっているというのがわかるなら、要注意です。その時は賢くあって下さい。休息を少なくした結果、体を引きずり外を満足に歩くこともできないのならば、自分の体の能力を超えてしまった、ということです。
ですから賢くありましょう。体にどれだけの力があるのか見極めることです。マインドが体の中で体を通して機能しているので、体にどれだけ能力があるのか全然わからない場合もあります。体には200メートル歩く力があっても、マインドが「50メートルで充分だ」と言います。体にどれだけのことができるのか、自分が体の中で体を通してどれだけのことができるのか、見極める必要があります。
「身体よ、君はもう歳だ! 君の力は毎日減少し続けている。だから非常に用心し、賢く対処しないといけない。」と、体に対し慈愛に満ちた思いを持っているなら、何ヶ月あるいは何年か経ったら「ついに完全に自由になった!」と体に言われることでしょう。この場合「完全な自由」とは他でもない、「動かないこと」です。貴方の人生からあっという間に、活動というものが消えてしまうでしょう。ですからいつでも知恵深く、賢くあるようにしましょう。私が椅子に座っていると、飼っている子犬のチェラがやってきて餌が欲しいと泣きます。そのうち泣き止むだろうと思っているのですが、泣きやみません。それどころか鳴き声がどんどん大きくなっていって、襲われるのではないかと思う位です! 子供も同じように泣いて泣いて、最終的には死に物狂いになります。同じように、私たちも本当に死に物狂いになったら、内的な決意が出てきます。しかしその決意は子供のそれとは違います。その中にある程度の落ち着きがないといけません。そして涙もなければいけません。
誠実な涙を育むことができたら、本当の決意を得ることができます。全てがハートの叫びと涙にかかっています。本当に良い人になりたい、世の中のために何かをしたいと思うのであれば、目の涙ではなくハートの涙を感じないといけません。ハートの中に流れる涙を感じてください。ハートが血を流している気持ちになる必要があります。そうすると決意がやってきます。
全てがハートの中にあります。5分でも10分でも15分でもハートの中で生きることができれば、答えが見つかります。「決意や不屈の意思をどうやったら持つことができますか。」という質問はマインドから来たものです。しかし答えはハートの中にあります。ハートの涙の中にあるのです。すべてのことに対してハートの涙が答えです。そしてこの涙を通して神に「神様、私の存在全体を貴方の御足元に置きます。どうかどうか私に決意を与えてください。間違ったことに走るのではなく、正しいことが出来るように。」とお願いします。神を悟る前に完全に神の意思とひとつになる事はできないと思います。私の弟子に関して言えば、外的には私との一体感を確立した者もいます。その弟子たちに何かをするよう頼めば、外的世界で、すぐに喜んで朗らかにしてくれます。周りの皆はそのように喜んで行動している彼らを見て、師と一体感を築いているのだなと思います。しかし内的世界では、ひどい葛藤が起こっていることが多いものです。何故なら、先生が言っている事は正しくない、先生が頼んできた方法は正しいやり方ではないとマインドが言ってくるからです。
内的一体感が5分でも持てたら素晴らしいことを達成したと言えます。しかし残念なことに、弟子の願いが叶えられなかったり、他の誰かの方が早く進歩していたり、自分の調子が悪く下降線だと思ってしまうと、あっという間にこの内的一体感が消えてしまいます。
内的な叡知を使えば、神の意思とひとつになることなしには決して、決して、決して幸せになれないとわかります。中には、鬱やフラストレーションから幸せを感じる人もいます。また、他の人に腹を立て外的にその人に苦しい思いをさせる人もいます。さらに、その人に罰を与えるためそのような振る舞いに出たのは神の意思に沿うためだった、と感じています。人間というのは本当にいろいろな方法で、「神の意思とひとつになるとはこういうことだ、ああいうことだ。」と想像します。しかし悟る前に神と永遠の一体感を築く事は不可能だと私は思います。もちろん、そのシーカーが悟りの寸前まで来ているなら話は別ですが。それ以外の場合、この瞬間は完全に神および神の意思とひとつになっていても、次の瞬間には何か悲しい知らせを耳にし、その一体感は全然なくなってしまいます。一方何か嬉しい知らせを受け取ると一体感が戻ってきます。
もう一つ一体感についてですが、そこに実に大きなプライドが存在することがあります。数分、数時間、数日間という期間、神の意思とひとつになれたとします。するとその人は巨大なプライドで一杯になります。こちらを見ては、「他の人は一体感を確立していないな。」と確認します。あちらを見ては「他の人は神の意思から遥か遠いところにいる」ことを確かめます。
ですからすべてのことに対して、正しいことをして神の時を待つのが一番です。マインドが非常に活発でハートに明け渡していない間は、永続的一体感を持つ事は不可能です。マインドがハートに明け渡し、またはハートから助言をもらうなら、一体感を確立するのはもっとずっと簡単になります。魂はいつでも神の意思とひとつです。その一体感は完全に永久なものです。しかし魂は身体、バイタル、マインドの中でそれらを通して機能するほど強くありません。時にはハートを通して機能する充分な強ささえありません。
神の意思が何なのか魂にはわかっています。しかしそれを魂がマインドに言うと、マインドは反抗します。バイタルに言っても反抗します。そして体に伝えると寝始めます。
神の意思とひとつになるためには、身体、バイタル、頭、心、霊的すべてにおいて自分を捧げる必要性を感じましょう。いつでも準備ができてないといけません。神の意思が何なのかはわからないが、神の意思が存在する事は知っています。神の意思が何なのか知る必要はありません。イエス・キリストが唱えた聖なる祈り「御心のままに。私の意思ではなく常に御心を。」と言う祈りを繰り返せばいいのです。神の意思が何か知らないのに神はどうやって働くのかと思うかもしれません。しかし神の意思が何なのかを知る必要は全くありません。ただ神に「神様、御心が何なのかわからないし知りたいとも思いません。ただ祈ります。私の中で私を通して御心が遂行されますように。」と祈ってください。
神がその意思を貴方の中で貴方を通して遂行し始めたら、神が貴方の内的人生と外的人生において貴方との一体感を確立したということです。ただ最愛のスープリームに、「一瞬一瞬自分の中で自分を通して行動してください」と祈りましょう。一体感とは何なのかを考えるのではなく、こうすることで一体感を確立します。「神の意思、神の意思、神の意思、私の意思ではない。私の意思ではない。私の意思ではない。」と繰り返せれば、寝ている間も夢を見ている間も同じ内的な声が聞こえてくるようになります:「スープリームよ、御心、御心、御心。」「御心」と言うたびに、神の意思との一体感を確立します。しかしハートを使って天国へ行けば、全然怖くありません。ハートは小さな子供のようなものです。子供はお母さんの所へ行くのもお父さんのところに行くのも怖くありません。自分には何の秘密も無いと感じています。子供をきれいにして真実を教え、あらゆる意味で善い人であるよう補助するのは親の責任です。子供は怖がっていません。火に向かってでさえ走ってやってきます。火で火傷をしてしまうということも知りません。ただ新しい場所に行けるのが嬉しいのです。子供にとって天国とは新しい場所ですから。
ハートを使ったら天国が怖いことは決してありません。しかしマインドを使えばすぐに、昔からしてきた悪い事がすぐに思い浮かび、怖くなってしまいます。生徒が勉強も宿題もしていなかったら、学校へ行くのが怖いものです。先生に怒られると思うからです。しかし一生懸命勉強して、宿題もきちんとしてあれば、先生を怖がることはありません。テストには通るとわかっているからです。
マインドはテスト前の生徒のようなもので、ハートは両親に向かって駆けていく小さな子供のようなものです。質問: 貴方はたくさんの楽器を演奏されますが、どの楽器が一番お好きですか。
シュリ・チンモイ: そうですね、かなりたくさんの楽器を演奏しますが、一番気に入っているのはエスラージです。これはインドの楽器でムガール帝国皇帝の時代、500年以上前に起源を持ちます。その皇帝の中でも一番偉大なアクバル大帝は、宮殿で音楽家達にこのエスラージを演奏させました。このようにして音楽は我々の人生で非常に特別な役割を担っています。これまで実に様々な場所でコンサートを行ってきました。私の音楽演奏は、自身の内的感情に基づいています。誰でも自分の人生を非常に信頼しています。私はインド人なので祈り瞑想します。これが私の生き方であり、ライフスタイルです。そして自分の内的祈りと瞑想の大切さを、演奏を通して伝えようと試みています。
私は神を信じています。他のシーカー(=至高の真実の探求者)の中には、「真実」を信じているという人もいます。私の言う神とその人たちの言う真実は同じことです。「光」を信じているという人たちもいます。お釈迦様は光を信じました。神は全く信じていませんでした。お釈迦様の内的光は私たちの言う神と同じことです。神と光を分かつことはできません。神と真実も分かつことはできません。同じように、貴方が貴方自身を強く信じているなら、ここで言う「自分を信じる事」は私の言う神と同じです。神は光でも、真実でも、信じる事でもあり得ます。そしてとても強く信じる事を「信頼 (faith)」と呼んでいます。貴方の言われた二点目は、もっと科学を発達させ災害から人間を守る必要がある、です。これにも完全に賛成です。科学技術は発展せねばなりません。しかしこんなことを言っては申し訳ないですが、どんなに科学技術を発展させてももし自然が怒り狂ったら、どんな科学技術でも降伏させる事はできません。宇宙的自然は人間の科学的功績より果てしなく強力なものです。母なる自然が激怒したら、太刀打ちできません。
ですから二つの方法があるということです。科学を発展させる事と、自然の怒りで自然災害が起こり苦しめられる事がないよう、母なる自然に敬意を払う事です。この二つとも絶対に正しいですが、もう一つ、この二つの妨げには全くならない方法があるので、付け加えてもいいでしょうか。それは祈りです。至高の存在、最強の存在、最も強力な存在に危害や自然災害から守ってもらえるよう、すべてのこと、すべての人から守ってもらえるよう祈ることです。
この三つの方法全てを同時に取り入れることができたら、自然災害を回避できる可能性が高くなります。この世界はたった一つの家族です。貴方は私の妹で、私は貴方の兄です。全世界が大きな家族であり、兄弟姉妹で成り立っています。この家族の一人一人が世界全体に貢献できる独特のものを何か持っています。皆で平和の中に共に生きることもできれば、言い争いや喧嘩をして戦争を仕掛けることもできます。
このように我々のこの世界の選択肢は二つです。一つは友情、兄弟愛、一体感を確立すること。もう一つは征服または破壊しようとすることです。二つ目の方法をとると最終的には自分自身を滅ぼします。
人として皆が実際に求めているのは喜びであり、幸せであり、満足です。このような資質を得られるのは、自分を他の人たちとひとつに結びつけた時だけです。他の皆は自身の現実の延長でしかないからです。世界家族の他の皆と一体感を確立したら喜びが得られ、この喜びはずっと続きます。しかし力や権力を使ったり、手段を選ばず他人を征服しても、ずっと続く喜びを得ることはできません。
一つ目の方法は絶対に正しいやり方で、世界家族の全員と一体感を確立することです。もう一つのやり方は優越感の歌を歌うことです。自分は他人より強いことを証明しようとしたり、自分の方が強いと世界に知らしめねばと思う事です。これは間違った方法で、分断からではなく、ひとつになることでしか喜びは得られません。
自分自身を広げ、自らの翼を広げて世界全部をまさに自分のものとし、母なる自然を愛すると、その時得られる喜びはずっと続きます。そしてこの喜びには甘美さがあります。非常に優しい甘美さです。この喜びを私たちは切望しています。創造物の喜びです。どうしたら愛を持てるようになるかという質問ですね。答えは、愛さなければどうなるでしょうか。今私たちが見ている世界は憎しみ、支配、優越感ばかりです。お互いを愛さないことで本当に苦しんでいます。
しかしどうやって誰かを、または何かを愛するのでしょうか。まず自分自身を愛さなければ他人を愛することはできません。朝早く自分が幸せであれば、道で会った人誰にでも挨拶したり微笑みかけたくなります。しかし朝不幸せな気分だったら、周りを見ようともしません。不愉快な気分で、人のせいで一日が台無しになったとまで言ったりします。内的に幸せなら、世界全部が良いものになります。しかし内側奥深くで不幸な思いだったら、世の中全部のせいにします。自分を責めるのではなく、世の中のせいにするのです。でも実際悪いのは誰でしょう。自分自身の責任です。
ではどうやって世の中を愛したら良いでしょうか。喜びを作り上げることで世界を愛せると思います。喜びから愛を得、愛から喜びを得ます。どうやって喜びを創ったらいいでしょうか。何かをすることです。小さな子供は人形で遊ぶことで喜びを得ます。もし神を信じているなら神に祈ることで喜びを得ます。喜びを得ると、すぐにそれを毎日の生活に活かしたいと思うようになります。するとこの喜びが愛に変わります。
自分たちに喜びを与えてくれるものが何なのか、注意を払いましょう。喜びから愛を得られます。喜びから始めましょう。私たちがこの世にやってきたのは、世の中で喜びを与え、喜びを受け取るためです。しかし残念なことに、多くの人がハートではなくマインドを使っています。そのために世の中から喜びを得るのが本当に難しいと感じています。マインドはただ分断することでしか喜びを得られません。現実を切り刻むことで喜びを得ようとします。ハートは現実をそのままにしておきたいと思い、切り刻みたいとは思いません。
ですから答えはハートです。ハートには喜びがあり愛があります。それに対してマインドに喜びは全然ありません。更に、ハートから得た内的喜びをマインドは全部取り去ってしまいます。マインドのせいで、周りを疑い周りに嫉妬します。誰かが良い人だったり、何か素晴らしいことを達成しても、疑うマインドを使ってその人を見くびったり、その人の成果を卑下しようとします。他の誰かを疑ったり嫉妬することで、何か喜びが得られるでしょうか。それに対し、ハートを使えばその人と一体になることができ、本当に大きな喜びが得られます!
本当に素敵で美しい曲をハートを使って聞いたら、その音楽、歌い手、またはメロディーとひとつになります。自分自身が歌い手でそのメロディーを歌っていると感じることさえあるかもしれません。しかしマインドを使うとその歌い手に嫉妬したり、音楽に嫉妬心が湧いたりします。
このようにハートから得られる経験とマインドから得られる経験は違うものです。前者は他の人を高く評価し、後者は他の人の栄光を最小限にしか評価しません。前者は私たちを本当に幸せにしてくれ、後者は不幸な気持ちにさせます。もし中国の歌が流れていてそれを聞くのにハートを使ったら、本当にその音楽との一体感と喜びを得ます。しかしマインドを使ったら「いや、私のインド音楽のほうがずっといい!」と思うことでしょう。同じようにもし貴方もマインドを使ったら、「インド音楽は馬鹿げている。眠ってしまう。演奏が始まると他に何もすることがなくなる。」と言うことでしょう。しかしハートを使ったら「インド音楽は本当に綺麗で癒されて、心に焼き付いて離れない。」と思うことでしょう。
批判的なマインドを使って負け犬になるのは誰でしょう。私たち自身です。誰かを批判しても決して決して幸せになる事はありません。なぜなら私たちの内側にある本質は愛、永続的な愛に他ならないからです。このため我々の哲学では、ハートに本当に重きを置くのです。ハートは現実をそのまま受け入れます。他の人が良い人だろうが悪い人だろうが気にしません。他の人に善意を捧げることでその人たちと分かちがたくひとつになります。それに対しマインドは絶えず、他人の良い資質と悪い資質の間を行ったり来たりしています。この瞬間は「誰それはいい人だ。」と言ったかと思うと、次の瞬間には「あんな人と一緒にいるなんて貴重な時間を無駄にしている。」と思ったりします。善意のハートで他の人に歩み寄ることで、その人の魂との友情と一体感が築かれ、途方もない喜びを得られるのです。しかしマインドで他の人に近づくと、その人のあら探しをしようとするばかりです。
マインドを使うと、花の近くへ行ってもいたずらな猿のように、花びらを一枚一枚取って台無しにしようとします。しかしハートを使って花に近づけば、その花の美しさと香りを愛でるでしょう。ハートは喜びを与え喜びを受け取ります。マインドは自らが見ている美しさと現実を壊そうとします。当然批判された人たちは同じように反応するでしょう。力を振り絞って自分自身を防御するでしょう。つまりハートは双方からの愛、マインドは双方への破壊です。
善意が働くと、ハートの扉がすぐに開き、ハートを解放します。貴方の場合完全にハートは開いています。ハートを開くことである目的地に達しました。明日になったら、それで終わりではないとわかるでしょう。最初の一歩は踏み出しました。これはしっかりした一歩であり、愛、喜び、光、平和、至福などの神聖な性質をハートの中に絶対感じることでしょう。この最初のステップでハートが開くと、本当に満足を感じます。そして明日になれば自分の中で実に多くの神聖な性質が花咲くのがわかるでしょう。花びらが一枚一枚開いていく花の如く、貴方のハートの中で実にたくさんの神聖な資質が花咲き、途方もない喜びを得ることでしょう。そして人生には素晴らしい意味がある、と感じる事でしょう。その意味とは自分の愛、喜び、平和、至福を毎日増やしていくことです。古代中国の英知と現代のスピードに何も齟齬はありません。二つは手を取り合って進んでいます。内側奥深くに行ってみれば、中国が何世紀も前、世界全体に対して捧げた無限の叡智が見えます。そして今中国がこれ以上ない位のスピードで科学技術を発展させていることもわかります。
この二つは共に進んでいます。なぜなら中国は古代の英知を蔑んだり捨ててしまってはいないからです。
また中国の人達は、古代の知恵と現代のスピードを比べることもしていません。ただこの二つを一緒にしようと熱心です。これは内的なものと外的なものが一緒に進んでいるということです。最速で走るには足が二本必要です。全く同じように、もし内的英知だけに頼るなら、現代社会と足並みを揃えて歩くことはできないでしょう。現代の世界にはスピードという利点があります。外的世界で中国はなんと早く進歩していることでしょうか! 内的英知を前面に持ってきて、それを外的なスピードと組み合わせる事で、中国はこれ以上ない程速い速度で進んでいます。内的英知と外的スピードは一緒に進むことができ、中国はそれを全世界に向けて証明しているのです。言い換えれば、中国の古代英知への愛、そして現代科学の成果への愛、この二つが中国の内的資質と外的能力を結び付けています。中国の内的資質とは英知であり、世界家族全部を包容する愛であり、一体感と光です。中国の外的能力とはスピード、スピード、スピードです。両方一緒に進めるのだ、と中国の実践によって今ここで証明されています。この内外の統合という素晴らしい成果に対し、中国は世界全体そして私の心からの称賛にふさわしい存在です。よって我が小さな心からの評価と賛美、感謝と誇りを捧げます。
[fn:csc55-1] CSC 51,1. シュリ・チンモイ作のこの歌の歌詞は:
```
「僕は中国の立派な子私は中国の良い子
共に誇らかひるがえす中国勝利の旗
古代中国英知の海原現代中国発展の速度—
ほら、世界が注目している!皆が読め、我らが栄光。」
(2004年12月17日) ```間違ったことを無意識にしてしまう時もありますし、わざとする時もあります。例えば小さな子供は火について無自覚です。無邪気だからといって、火の前に立っても火傷をしないということはありません。火の性質は(そばにいるその)子供を燃やすことです。人間として、自分に非常に率直であらねばなりません。自分の能力の許す限り良い事だけしてきたでしょうか。人間は本当にたくさんの間違ったことを自覚しつつ、故意に、悪意を持ち行ってきたことがわかるでしょう。どうしてでしょうか。自分の優位を示したいからです。
ですからこの津波について、自然の反逆、自然の復讐だと言うこともできます。母なる自然は本当の母親のようなものです。母親は子供たちが言い争ったり喧嘩したり全てを壊してしまっているのを見て、その子たちをぶちます。子供たちに良い子になってほしい、世界市民のお手本になってほしいと思っているからです。地球を滅ぼす意図なんて全くありません。そういう思いからは全く遠いところにあります。ただある程度まで子供たちに罰を与えているのです。心を入れ替えるように。
この津波は散々な経験をもたらしました。一方で本当に多くの国のリーダーたちがひとつになり、甚大な被害を受けた場所に助けの手を差し伸べました。これまでほぼ忘却の彼方に押しやられていた「思いやりの心」を、人は再び前面に持ってきたのです。中国の李肇星外務大臣は非常に優れた詩を書かれており、素晴らしいと思っております。「遠くの友人たちへ」と題した詩です。大臣の絶対的思いやり、愛、一体感を綴っています。このようにこの津波のおかげで人々の良い、神聖な資質が前面に出されたのです。神聖な資質で世界をひとつにすることができます。一方神聖でない資質で世界を破壊できてしまうのです。
貴方の質問に戻ると、苦しみからどうやって自由になれるでしょうか。まずは他の人を愛しその人たちと一体感を築かなければいけません。この一体感は私たちの内的存在に基盤があります。他の人を本当に思う気持ちがあるなら、その人の苦しみをいくらか取り去ることができます。例えば誰かのお母さんが亡くなったとしましょう。親しい友人なら、訪ねて行って慰めます。その結果この人の苦しみは絶対に和らぎます。貴方が分かち合っているので、遺族の悲しみが軽減されます。
今回の津波災害の場合、中国外務大臣、他の多くの国のリーダー、そして世界中の人たちが、思いやりで一杯の心を前面に持ってきました。世界全体で示した共感の心が本当に人類の助けになっています。世界が思いやりの心を使うことで、被害を受けた人たちの苦しみをかなり軽減することができました。
苦しみはありますが、苦しんでいる人たちと一体感を確立することで、それを分かち合うことができます。いつでも善意がないといけません。もし貴方が苦しんでいたら私が助けに行き、逆の場合でも貴方が同じようにしてくれたら、苦しみを減らせます。
苦しみを克服するもう一つの方法ができる日がやってきます。それは光を通して行います。人生は闇と光でできています。闇は私たちを覆い尽くし光を破壊しようとします。一方光は闇を破壊する事はせず、照らそうとします。外的世界で、苦しみは常にあるでしょう。しかしこの苦しみを最小限にする方法があり、それは一体感、一体感を確立することです。思いやりの心と一体感を使えば、苦しみはかなり少なくなります。
この母なる地球という星の究極のゴールは、苦しみではありません。喜びです。天国から私たちは来ました。天は喜びしかない場所です。さてこの地球という惑星で、私たちは悲しみ、不幸で、惨めであり、そのかなりの部分は私たち自身の責任です。しかし意識して自分の愛、善意、一体感を大きく大きく広げ、更に内側深くへ行けば、苦しみはもっとずっと少なくなるでしょう。一人一人にとって、幸せが究極のゴールです。私たちは、幸福の蜜である天からやってきたとわかっています。今これ以上ない位長く暗く明かりのないトンネルを通っているところです。しかしトンネルの終わりには、それがどんなに長いトンネルであろうと、光が再び待っていてくれます。その光とは幸福です。この賞賛と愛一杯の心で中国へ来ました。これは文化交流です。教え子と共に歌い演奏します。芸術と文化を愛する者として、滞在中中国のインスピレーション溢れる資質を見、吸収したいのです。善意、兄弟愛、一体感を捧げにやってきました。一方で心から中国に感嘆しています。それぞれの出身国から持ってきたものを捧げ、反対に皆さんの最愛の母国である中国から良い資質を受け取り自分自身の資質を豊かにしたくて参りました。皆さんが持つものを受け取ることで、我々自身の内的な富が増えます。そして私たちの携えてきた善意、音楽、生き方が何か皆さんのためになれば、これほど嬉しい事はありません。ですからこれは双方へのギブ・アンド・テークです。
CSC 54. 「中国での講演」コルカタ、1925↩
残念なことにマザーテレサが中国へ来たいという願いは、神に満たされる事はありませんでした。しかし私が中国へ到着した日、彼女の魂が非常にはっきりと見えました。これは本当のことです。マザーの魂がやってきて私を祝福してくれたのです。何故なら中国に来るという彼女との約束を果たしたからです。廈門では小さな子供たちのための音楽会を開きました。その日マザーテレサの魂は本当に幸せそうで、特に1000人以上もの子供さん達が私たちの歌「僕は中国の立派な子、私は中国の良い子」を歌った時はそうでした。
今回の中国滞在中、マザーテレサの魂に導かれていると、強く感じ、またそれが見えます。夢でも見ているのではないか、と言われるかもしれませんが、彼女の魂はただ祝福のため私のところへやってきて、内的に導いてくれるのです。マザーテレサは本当に心から中国へ来て中国の助けになりたいと願っていました。生前はたくさんの国へ出向いた方です。どの場合もその国の人たちの助けになりたいという思いだけでそれぞれの場所へと出向きました。
私は永遠にマザーテレサに感謝しています。マザーのハートはこれ以上ない位大きなものでした。もちろんコルカタだけでも、何百万人もの人が想像を超えた慈悲と愛情をマザーから受け取ったわけですが、コルカタに留まらず、マザーは世界すべてのための存在でした。マザーテレサは母なる地球が父なる天から受け取った、唯一無二の方でした。このプログラムの場合も同じです。世界向上のため善いことをした人たちがあらゆる分野におられます。その人たちのお役に立つのは自分の絶対の義務だと感じています。世界全体に対して大きく貢献した方々に喜んでもらいたいのです。両腕あるいは片腕でその方たちをリフティングします。この方法で長年かけ7000人の方々を持ち上げてきました。その中には大統領や首相、著名な方々も含まれます。ネルソン・マンデラ大統領、デスモンド・ツツ大司教、ラヴィ・シャンカール、モハメッド・アリなどです。
子供たちもリフティングします。子供たちは未来であり、また八十路を超えた方々も何人かリフティングしてきました。インドネシアでは、100歳を超えた女性を一人リフティングしました。100歳以上長生きできる人はあまりいませんよね? この方も素晴らしいことをしてきたのです。「長寿」を皆に見せてくれました。
とにかく誰かが何か他の人にない独特なことをした場合、その人を讃えたいのです。ノーベル賞受賞者、科学者、政治家。皆が同じ家族の一員です。その中にはすでに自らの能力で世界に貢献した方々もおられます。その方たちの助けになりたくてリフティングし、感謝と賞賛の気持ちを表現します。一方まだ蕾の方たちもおられます。人類の子供たちです。まだ完全に花開いてはいませんが私たちの未来です。ですから全力で応援している気持ちを捧げ、その子たちもリフティングします。
中国滞在中に、中国の心と魂のお役に立てることを願っております。熱意は眠っていることもあるし、ダイナミックで進歩的なこともあります。残念なことに、皆さんには熱意が欠けています。どの国にも良い資質と悪い資質があります。ただ、悪い資質の話をしたからといって、がっかりする必要はありません。それどころかこれを機会に自分の内的強さを全て振り絞り、愛する国々のため、そして世界全体のために何かをしようと思うべきです。一体感はあります。皆さんの一体感の心を見ることも感じることもできます。そして今必要なのはダイナミックな熱意です。ですからダイナミックな熱意を前面に持ってきて世界の他の地域にインスピレーションを与え、世界の他の国々のためにアスピレーションを持つようにしてみてください。
愛や、他の良い資質があったら、それを広げないといけません。そのために必要なのは熱意です。毎日熱意を呼び起こさないといけません。
熱意が(今)ないからといって、明日も熱意を育んだり発達させることができないということはありません。ただ弟子の中には、何ヶ月間も限りない熱意で魂とハートに栄養を与えてきたのに、その後その同じ弟子がハートと魂を枯渇させてしまう場合があります! スープリームを体現するため本当に一生懸命働き、その後がっかりして挫けてしまい、熱意が折れてしまうのです。その後再び熱意を生き返らせるまでに時間がかかります。
また他の弟子は、レクチャーをする時ものすごい熱意を持って話し始め、最高速度で走ります。そしてがっかりしても完全には熱意を失ってしまいません。ただゆっくり、非常にゆっくりと進むのです。ジェット機のスピードから、インドの荷車のスピード位にまで落ちます。しかし諦める事は決してありません。希望を保っています。諦めないこの弟子たちには本当に感謝しています。
すべてのことに相応しい時がありますが、私たちにできることは、諦めないことです。マニフェステーションを荷車のスピードで行ったとしてもいい、ただ諦めてはいけないのです。新しい小さなセンターが早く走れる日がどの時点でやってくるのか、誰にもわかりません。それぞれのセンターには一人しっかりとした人がいればいいのです。一人が自分を捧げダイナミックであれば、そのセンターは非常に強くあることが可能です。このようなセンターは何箇所かあります。一人がセンターを生かしているのです。
何年も前に起こった話を一つしましょう。インド領事館で私に最初に仕事をくれた上司はメロトラさんと言いました。私には学位がなかったのに、仕事をくれたのです。後でアルゼンチンのインド大使になられました。その時娘のアパルナさんがある弟子ととても仲良くなりました。彼女はアルゼンチンで唯一の弟子です。何年も何年もグルの光を体現しようと熱意を保ってきました。センターには他にメンバーが増えませんが、決して決して諦めた事はありません。
メロトラさんがこの弟子に会われたとき「アルゼンチンではもう他の弟子は要りませんね! 一人で充分ですよ。なんて献身的なお弟子さんなのでしょう。」と言われました。弟子が褒められた時は、決してそれを忘れる事はありません。また一方で、このような資質は現代社会でも壊されてはいないと言う人もいるでしょう。もし汚れのない美しさ、清らかさ、簡素さなどの神聖な資質を保ちたければ、できます。実際、現代社会つまり科学の世界は、インスピレーションとアスピレーション(切望)の世界の大きな助けになりえます。
ですから答えはその人によります。1000年前は体がもっと鍛えられて良い状態だったと言う人もいれば、そうではないと言う人もいるでしょう。自分自身の人生の中に答えを見出し感じないといけません。質問: 私たちの無知は金属のウェイトと同じ位重いのですか?
シュリ・チンモイ: そうですね、無知の持つ重さに比べたら金属のウェイトなんて何でもありません。嫉妬心や不安感を克服する方が、7,000ポンド(約3,175キロ)をリフティングするよりはるかにもっと難しいことです。
練習、練習、練習です! いつの日か神の恩寵が下りてきます。重いウェイトを持ち上げる練習をしばらくすると、最終的には持ち上げることができます。しかし自信のなさ、嫉妬心、不純、不完全、疑いなどを持ち上げるのには一生かかります。
疑いの一つ一つは、たとえそれがほんの僅かであっても、いわゆる金属のウェイトより果てしなく重いものです。重いウェイトが持ち上げられなくても特に大事なものを失う事はありません。無知は疑い、猜疑心、不安感、自信のなさ、嫉妬心などを包含していますが、克服できなければ真の負け犬になります。そしてこういうものはこれ以上ない程重いのです。庭の持つ美しさと香りを愛でる人たちはたくさんいます。これは美の一つの形です。庭の美しさが見え、貴方はそれに惹かれるので、そこで時間を過ごします。このように美というのは一種の力です。美には力の側面があり、美そのものが強さです。
一方でウェイトリフティングやレスリングなど、何か身体レベルの動きを見ている聴衆の注意を引いているのは力です。これは破壊的な力では全くありません。破壊しない力というのはたくさんあり、それはただインスピレーションを与えるのです。ウェイトリフティングをしている人は、他の人にも強くあるよう鼓舞しています。身体的にも知的にも心的にも強くあるように。
このように喜びは美を通してもやって来るし、力を通してもやって来ます。この美と力は同じ源から来ています。美から力へ入っていくこともできるし、力から美へ入っていくこともできます。この二つは共にあります。内的な美と内的な力はいつも一緒にあります。勝とうが負けようが、それがスポーツに対する見方であるべきです。「人類が進歩を遂げた」と感じるのが最高の幸せです。
最近シューダホタ・カール・ルイスとそのチームメートが400メートルリレーで勝利し、世界記録を破りました。それまでの世界記録は10年前に樹立されたものだったので、破るのに10年かかったわけです。人類がどれだけ進歩したかごらんなさい! ここで勝利したのは誰でしょう? シューダホタとそのチームメートを通してスープリームが勝利したのです。これはスープリームの進歩であり、シューダホタとチームメートが世界全部にそれを示しました。かつて別の4人の選手達を通して、スープリームは記録を樹立しました。今またこの4人の選手達を通してスープリームが新記録を樹立しました。そして時が来たら、また他の4人を通してスープリームが進歩するでしょう。
バイタルは人類の進歩に対して喜ぶべきです。これが正しい態度です。そうせずに、凄いことをしたのは自分のバイタル、自分の力なのだと思い、自分を褒めそやしていると、何日か、何ヶ月か、または何年か経ってプライドが粉々にされる日が来ます。
勝者はいつでも母なる大地、そして人類との一体感に基づき幸せを感じるべきです。人類がその人たちの中でその人たちを通して発展を遂げたのです。人類がもう一歩高い所へ行くために、その人たちが完璧な道具となりました。
バイタルだけでなく、マインドもまた非常に嬉しく思うべきです。マインドは、ある一人のマインドが成功したと感じるのではなく、その人を通して全体のマインドが進歩を遂げたと感じるべきです。ですから進歩がもたらされたことに対し、マインドは大いに喜ぶべきです。筋肉隆々ならば、喜びを得てもっと自信が得られます。一方で、自分は重いウェイトを持ち上げられるとわかっていれば、自信があるので大きな筋肉は必要ありません。
私の場合、負け惜しみかもしれません! 筋肉を大きくしようと試み、マハシャムラット・ビル・パールに、「二頭筋を15インチにする。」と伝えました。最近私の腕を彼に測ってもらったのですが、本当にたくさんトレーニングをしたにもかかわらず、何も変わっていませんでした。ですから今、「大きな筋肉は必要ない」と言えるのです!質問: どうして最終日にされたいのですか。
シュリ・チンモイ: どこかで区切りをつけないといけません! これまで6大陸を訪ね、1300人の方を持ち上げたことになります。もう充分です。
質問: でも筋肉隆々にはなられてないですね。体格も巨大ではないし。どんな原則に則って行なっているのですか。巨体ではないのに、どうしてここまで強くなれたのですか。
シュリ・チンモイ: 祈りと瞑想です。祈り瞑想し、神の恩寵と神の慈悲に完全に頼っています。
質問: 以前は走られていたけれど、その後怪我をなさったと聞いていますが?
シュリ・チンモイ: 自分の力を超えたところまで走ってしまい、右膝を痛めました。フルマラソンを22回、ウルトラマラソンも数回完走したのですが、そんなにすべきではありませんでした。自分には向いていませんでした。インドでは短距離走をしていました。
質問: 体格からいうと短距離向きですよね。
シュリ・チンモイ: 精神的コミュニティーで育ちました。そこでランニング、ジャンプ、投げ競技など練習しました。
質問: 貴方のされている祈りと瞑想は、トレーニングの種類によって、より助けになったりそうでなかったりしますか。
シュリ・チンモイ: 祈りと瞑想が、必要なことや必要不可欠なことに導いてくれます。祈りと瞑想が前もって何が必要か決めてくれます。一例を挙げましょう。ここアメリカで、特殊なウェイトリフティングの機械がいくつか必要でした。神は御自身の夢を、私の中で私を通して成就しようというビジョンがありました。そしてオーストラリアの教え子を道具として選ばれ、彼が私のエクササイズマシーンを作る役になりました。これは素晴らしい祝福で、神の限りない恩寵だと心から感じています。この教え子は、この4年間私のウェイトリフティングの世界で、想像を遥か超える非常な助けとなってくれました。
質問: でも神は貴方に努力してそれを達成して欲しかったのですね。
シュリ・チンモイ: そうです。肉体的にも精神的にもです。物質と精神は共になければいけません。精神は内、物質は外です。地面の下に種を撒きます。それで初めて芽を出し小さな苗木となり、やがて大木、菩提樹になりますが、種は地面の下に撒かれたのです。同じように私たちも、内的人生が一番大切です。内的人生が前面に出てくると、外的人生を受け入れ、同化し、変革し、私たちを完璧にしてくれます。
質問: リフティングをされる直前に、集中されていましたね。スポーツでは昨今イメージ・トレーニングというのが流行っていますが、そのようなことをされていたのですか。それともただ祈っていたのですか。
シュリ・チンモイ: その時はただマインドを静寂にしていました。何か行う前には必ず、まずマインドを静かにするところから始めます。マインドを静かにすると、ものすごいエネルギーが私の中全体へ流れてきます。宇宙のエネルギーを引っ張ってきます。マインドを静かにするとすぐに宇宙のエネルギーが私全体に入ってきます。
質問: 何か考えておられたのですか。
シュリ・チンモイ: その反対です。マインドは完全に空白でした。一度マインドを静かに静寂にすると、空のように、海のように広大になります。考えると自分に限界をつくります。瞬く間に思考がマインドの中に入ってきます。綱引き、もしくは動物園のようなものです。しかしマインドを静寂にすると、鳥のごとく空を飛んでいると感じます。空は飛んでいる鳥に影響される事はありません。そして鳥は飛んでいるのが楽しく、空から直接エネルギーとインスピレーションを受け取っています。
質問: スポーツでホワイトゾーンと言われているものと良く似ていますね。アスリートが純粋に直感的なレベルに入り、そこでは考えがないのです。最初に何かを学んでいるときは、何をしているか自分で分析していますが、ある時点になるとそれが止みます。
シュリ・チンモイ: あるレベルに達すると、自動的にできるようになります。歌手の人は何年もレッスンを受けますが、心に響くような声を出せるようになると、基礎的な練習をする必要はなくなります。実際に歌っている間、心配する必要がなくなります。踊り手の人は練習してステップを習っていきますが、実際に演技をする時になると、体が自然に動きます。内側から何かが自らを表すのです。
質問: 皮肉なことに、その直感はトレーニングをして得られたもの、ですね。
シュリ・チンモイ: 考える時間はありません。ただ行うのです。自然に沸き起こる喜びがあります。練習すると自信になります。練習しなければ何が自分にできるのか、どれだけのものを前面に持ってくることができるのか、全然判りません。
[シュリ・チンモイがマーク・タイヒ氏をリフティングする。]
質問: どうもありがとうございました。何とも言えない感覚でした。私もこれで貴方の数字の一人になったのでしょうか。
シュリ・チンモイ: 1299人目の方になりました!質問: それは今即興で作られたものなのですか。
シュリ・チンモイ: そうです。
質問: 御自分のことを教えていただけますか。昨日香港にいらして、これは東南アジアツアーの一環だと聞いています。そして「ひとつの心で世界を持ち上げる」というプログラムを行っているということですが、どういうものなのか説明していただけますか。
シュリ・チンモイ: 私は真実の探求者であり、神を愛する者です。人類に奉仕するのは私の絶対の義務だと感じています。「ひとつの心で世界を持ち上げる」は我々のテーマです。心に平和があれば、人類の意識を向上させることができると感じています。この世界は創造主たる神のもので、と同時に創造主たる神は創造物たる神にもなりました。ですからいろいろな所へ出向き、その国の皆さんに魂からの奉仕を捧げようと試みています。
質問: それは貴方が内側から得ているメッセージなのですか。
シュリ・チンモイ: そうです。インナーパイロットから得ています。誰でも何かに導かれているものです。一番よくあるのはマインドに何かをするよう言われ、その命ずることに従います。しかし規則的に魂から献身的に祈って瞑想すれば、ハートの声を聞くことができます。私の場合、そのようにハートの声に耳を傾け、世界と分かちがたい一体感を確立しようと試みています。
質問: この番組の視聴者の中には少々理解し難い、あるいはどういう目的なのだろうと思う人もいると思うのですが。
シュリ・チンモイ: この世の中は誤解で満ちています。私の目的が誠実で本物なのかどうか、神にしか判断できません。私の考え方を広めにきたのではありません。人類に献身的に奉仕するために来たのです。同じように献身的で先進的な奉仕をするため、世界の多くの場所へこれまでも出向いてきました。
この「世界を持ち上げる」プログラムはつい最近始まったばかりです。まだ1年にも満たないでしょう。この3年間ただ体を鍛えるためにウェイトリフティングをしてきました。以前はランナーだったのですが、膝のひどい負傷をのため断念しました。そしてウェイトリフティングを始めたのです。神の恩寵で素晴らしい成果を上げることができ、ここ6カ月間は人を持ち上げるということをしています。
一人一人に身体、バイタル、マインド、ハート、魂があると信じています。そしてある人をリフティングしている間、その人に献身的に奉仕していると感じます。献身的な奉仕で、持ち上げられた人自身の神聖な資質を前面に持ってくることができると感じています。これは皆で一緒に世界を持ち上げるため、最も重要なことです。
質問: どのような人たちをリフティングされてきたのですか。
シュリ・チンモイ: あらゆる分野の方々をリフティングしてきました。国連の外交官、大学教授、ボクサー、歌手、アスリート、ウェイトリフター、聖職者、修道女、医者、弁護士などです。
質問: 貴方の体重はどのぐらいですか。
シュリ・チンモイ: 普通は151から157ポンド(約68〜71キロ)の間です。
質問: 今までリフティングした中で一番体重が重かった人は誰ですか。
シュリ・チンモイ: カリフォルニアでサクソフォン奏者の大御所クラレンス・クレモンズをリフティングしました。「ビッグマン」でお馴染みで、283ポンド(約128キロ)でした。
質問: ほとんど御自分の体重の2倍ですね!
シュリ・チンモイ: そうです。そして昨日ここ香港で写真家の方を2人同時に持ち上げました。2人の体重の合計は265ポンド(約120キロ)でした。
質問: ところで、リフティングは片手でされるという事ですね。どちらの腕でなさるのですか。
シュリ・チンモイ: 左腕でも右腕でも行います。どちらも同じ位の強度です。
質問: 片方の腕で自分の体重の2倍ある人をどうやって持ち上げられるのですか。
シュリ・チンモイ: 神の無限の恩寵が私の中で私を通して働きます。若い時は、ウェイトトレーニングなど全くしませんでした。短距離と十種競技の選手でした。この人生ずっとランナーでしたが、3年前新たに、ウェイトリフティングを始めました。他人と競争はせず、自分自身と闘うのを楽しんでいます。初めは40ポンド(約18キロ)でした。3年前は40ポンド持ち上げるのもほとんど不可能なことでした。そして段々と、ゆっくり、着実に、確実に進歩し、今はこのレベルまで来ました。
質問: 貴方にリフティングされた人たちは、駄洒落みたいですが、持ち上げられるような経験をするのですか。リフティングされた後は前よりずっと気分が良くなるのですか。
シュリ・チンモイ: 中には「肉体の領域だけでなく内的な領域でも持ち上げてもらえました。」と言われる人もいます。6ヶ月位前にフィラデルフィアから修道女の方が参加しに来てくださいました。彼女をリフティングすると、「体も精神も両方持ち上げていただく経験でした。」と言われました。そしてこれはリフティングの後で本人から伺ったのですが、興味深いことに、その日の彼女のホロスコープは「誰かが肉体的にも精神的にも持ち上げてくれる。」と出ていたのです。それではるばるフィラデルフィアからニューヨークまで来てくださったのです。
記者: その方にとって良い経験で良かったですね。今日これから香港でリフティングされる皆さんにとっても同じように良い経験になることを願っております。シュリ・チンモイさん、どうもありがとうございました。「ひとつの心で世界を持ち上げる」のご成功をお祈りします。
リフティングする際、自分の内的平和を使って内的世界と外的世界を結びつけようとします。私は平和の生徒です。毎日子供の時から祈り瞑想してきました。祈りの人生から平和を得て、この平和から強さを貰います。私のウェイトリフティングは内的強さの体現です。魂からの奉仕を人類に捧げています。
質問: ウェイトリフティングが内的強さの表れだとおっしゃいましたか。
シュリ・チンモイ: そうです。祈りと瞑想の人生のおかげで、神は無限の恩寵で内的強さを下さいました。この内的強さを物質を通して体現しようと試みています。
質問: シュリ・チンモイではないのですか。
シュリ・チンモイ: シュリ・チンモイではありません。私の受容力に応じて、能力に応じて、自らを私の中で私を通して体現している「唯一の存在」がおられます。ですから私のことを褒めて下さるのなら、その賞賛を受け取るべき存在は私でないとわかっています。私ではないのです。貴方が評価して下さった能力を私にくれた「存在」がいて、私ではなくその「人」こそが賞賛を受けるに値します。
行為者は私ではありません。私はただの道具、通り道です。ですから称賛が来ても、それは私ではなく直接その源に行きます。
質問: つまりその源がどれだけ成し遂げたかということでしょうか。
シュリ・チンモイ: そうです。私の能力と受容力にかかっています。私の中で私を通して自らを体現しようとし、私にインスピレーションを与えてくれるその「存在」をインナーパイロットと呼んでいます。貴方の賞賛は直接インナーパイロットに行きます。
質問: 神との特別なその関係を、子供時代からずっと持っていらしたのですか。
シュリ・チンモイ: 祈り瞑想し始めたのは4歳の時でした。今57歳になります。
質問: 常にいつもわかっておられたということですか。
シュリ・チンモイ: 信心深い家族に生まれ育ちました。そして兄姉たちの歩んだ道を辿ることができたのは幸運なことでした。
記者: この度はご親切にお時間を作ってくださり、本当にありがとうございました。ご活躍をお祈りしています。質問: そのような能力を発達させるには、どのくらいかかるのですか。
シュリ・チンモイ: それは完全に神の恩寵にかかっています。10年あるいは12年ほどでそのような能力をつけたシーカー(真実の探求者)もいれば、一生かかる場合もあります。その人にどれだけ受容力があるかにかかっています。
質問: そうできるようになったら「スポーツで秀でる」他に、どんな意味合いがあるのですか。
シュリ・チンモイ: 真実を探求する者、神を愛する者として私が感じるのは、毎日規則正しく魂を込めて祈り瞑想すれば、無限のエネルギーを必ず得られるということです。この無限のエネルギーを得ると祈りの助けになり、自分の能力を促進できます。
質問: 幸せですか。
シュリ・チンモイ: 私は人類に奉仕することで喜びを得ます。一人一人が独特の方法で人類に奉仕しています。今貴方はこのプログラムを録画されていますね。私たちのしているこの対話からインスピレーションを受ける視聴者の方たちが何千人といることでしょう。貴方の非常に意義深い質問に対し、私の内的覚醒から出来る限りの答えをしようと試みています。ですから今行っているこの会話は間違いなく、真実、光、至福を切望する人々の助けになるでしょう。
質問: こんなことを言って申し訳ないですが、貴方はウェイトリフターらしくありませんね。
シュリ・チンモイ: そうですね、全くその通りです! 私の場合全てが神の恩寵です。ウェイトリフターの体格はしていません。以前はランナーでした。リフティングのことなど考えたこともありませんでした。しかし今は、ウェイトリフティングを通じて神を体現できるよう多くのことをしなさい、と慈悲なる神に言われたのです。
質問: 他の人も瞑想すれば貴方のようにリフティングができるのでしょうか。
シュリ・チンモイ: もちろんです! それが神の意思ならば、誰だって簡単にウェイトリフターになれます。
質問: どのぐらいの頻度で瞑想されるのですか。ずっと瞑想しているのですか。
シュリ・チンモイ: 夜中に何時間も瞑想します。世界中に生徒が数千人いるので、ほとんどその生徒たちに瞑想しています。子供の時からずっと瞑想をしてきて、今は自動的にできるようになりました。ですから慌ただしい生活の中でも、自分の奥深くでは瞑想が続いていると感じます。
質問: リフティングをされている間、何を感じているのですか。
シュリ・チンモイ: リフティングをしている最中は、神の聖なる慈愛が私の中で私を通して流れていると感じます。そして自分は完璧な道具になろうとします。神が私の中で私を通して働いており、その完璧な道具になろうとしています。リフティングの最中、行為者は私ではないと感じます。私はただの道具です。内的な力、パワーが私の中で私を通して働いていて、それを前面に持ってこようとします。
質問: 貴方のされているウェイトリフティングを信じ難いと感じている人はたくさんいると思います。
シュリ・チンモイ: 私も人間的マインドで考えると信じがたいです! 一方でこれは自分がしていることではないとわかっています。無限のエネルギーが私の中で私を通して働いているのです。このように思うとマインドを静寂にすることができます。
質問: ウェイトリフティングを始めてどのぐらいになるのですか。
シュリ・チンモイ: 4年前に始めました。しかし人をリフティングしているのはここ1年ほどです。
質問: もちろんランナーでもあられるわけですね。
シュリ・チンモイ: 元は短距離走をしていました。そして長距離を走るようになりました。短距離の時代は、インドの水準ではかなりのレベルでした。しかし世界水準から言うと全然大した事はありませんでした。ここ西洋では、フルマラソンを22回、ウルトラマラソンを2回完走しました。その後右の膝を痛めたため、もう走ることができず、ランニングは断念しました。体を鍛え健康でいたかったので、ウェイトリフティングを始めました。
質問: 主宰されているランニングのイベントは世界中で素晴らしい盛況ぶりですね!
シュリ・チンモイ: 内的な走りも外的な走りも奨励しています。二つは共にあらねばなりません。善い考え、善い内的思いがあると、それは内的な走りです。そしてその感情を外的に表現し、その善い思いを他の人と分かち合うと、それは外的な走りになります。外的な走りは常に奥深くから始まります。
質問: 実はもうすぐ30キロレースに挑戦するつもりなのですが、何かアドバイスをいただけませんか。
シュリ・チンモイ: かつて長距離を走っていた時、全部の距離を考えるのではなく、その総距離を部分部分に細かく分けていました。例えば貴方の場合なら30キロです。その距離が何キロあろうと、「そんなに長い距離は走らない。」と想像するのです。1マイル(約1.6キロ)走ることになっていたら、その4分の1を走るのだと思います。そしてマインドに「長距離を走るなんて、まさか! ただ4分の1マイル走るだけだ。」と言い聞かせます。そして4分の1マイル走ったら、もっとエネルギーがあるのがわかるでしょう。
このようにしてマインドをごまかし、律するのは常に良いことです。そうしないと、マインドは余計なプレッシャーをかけてきます。走り始める前に心配と不安で一杯になってしまいます。
しかしマインドに策を講じて、「自分の能力に充分できることをしているのだ。」と賢く言い聞かせることができたら、マインドの重荷を取り去ることができます。そうすれば不安も心配もなくなります。質問: 以前にも何か他のスポーツをされていましたか。
シュリ・チンモイ: はい。ずっとスポーツをしてきました。若い時はアスリートでした。インドの水準からするとなかなか優秀なアスリートでした。また十種競技でもチャンピオンでした。短距離、ジャンプ、投げ種目等で秀でていましたが、全て昔のことです。
質問: 従来のウェイトリフティングのテクニックがたくさんありますが、貴方はそのどれも使っておられないですね。どのようにやられているのですか。
シュリ・チンモイ: 私の場合内的なインスピレーションの問題です。かつてウエートリフティングを極度に嫌悪していた時期がありました。驚かれるかもしれませんが。インドでは短距離走をしており、ウェイトリフティングはランニングの選手生命に有害なものだと思っていました。ここアメリカでも何年も走り、世界中にいる教え子にも走るように鼓舞しました。ランニングのせいなのか、右膝をひどく痛めてしまい、そのため走るのを断念し、今度は体を鍛え健康を保つためにウェイトリフティングをするよう内側からインスピレーションが来ました。それで始めたのです。
ご覧のように私はウェイトリフティングのテクニックは何も知りません。ボディービルダーやウェイトリフターの体格もしていません。完全に神の恩寵に頼っています。すべての行為において、神の恩寵が私の中で私を通して働いているのです。スポーツをする時だけでなく、文筆活動、芸術などすべて他の活動においても、完全に神の恩寵と神の慈愛に頼っています。神に助けられ導かれ守られているのです。私を通しての行為者は神で、ただ良い受け取り手になろうとしているだけです。自分自身の受容力を神に捧げようとし、一方神は全てのことを私の受容力に応じて、私の中で私を通して行います。質問: 皆が戦争をしていて、そのすべての側が「神のための戦いだ。」と言っているのですが、どうしてそんなことが可能なのでしょうか。神が一人しかいないのであれば、どうしてそんなにたくさんの異なる立場があるのですか。
シュリ・チンモイ: これは神に対しての誤解から来ています。神は愛だけの存在です。神を父親としましょう。そして貴方と私は兄弟です。私たちが言い争ったり喧嘩したりしていたらお父さんは嬉しいでしょうか。嬉しくありませんね。お父さんは二人の息子が幸せで平和に満ちていて初めて嬉しく思います。 一つ一つの宗教が「神への愛」から始まります。神を忌み嫌ったり、人類を嫌悪している宗教があるでしょうか。そんな宗教はありません。ただ私たちは神に対して思い違いしているのです。キリスト教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、イスラム教、仏教、ジャイナ教。全てが「神を愛している」と言っています。しかし本当に愛していたら、その人を不幸にすることができるでしょうか。神を愛していると言いながら言い争いや喧嘩を続けていたら、おかしくありませんか。最愛の神を喜ばせたいと私たちは願っています。聖なる父を幸せにしたいと思っています。父親を不幸で惨めな思いにさせたい人がいるでしょうか。そんな人はいません。しかし残念なことに、私たちの行動は神を悲しませ惨めな思いにさせています。戦争、言い争い、喧嘩や不幸な生活を擁護する宗教はありません。
質問: スポーツ選手の知り合いが多く、その中には祈る人たちもいます。「お願いです、父なる神よ、今日の世界選手権で勝たせてください。」と祈るのです。そして成功する時もあります。このような祈りは良いものなのですか。
シュリ・チンモイ: その祈りは良いですが、最良の祈りではありません。最良の祈りは「御心のままに」です。救世主キリストはこの最も意義深い「御心のままに」というメッセージを世界全部に捧げました。
最強のスポーツマンの一人であるモハメッド・アリについてお話ししましょう。モハメッド・アリを知らない人はいません。とても親しい友人です。約10年前、ある試合の前に一緒に15分ほど瞑想しました。彼はイスラム教徒なので、アッラーに祈っていました。そして私は神に祈っていましたが、これは同じ存在です。一緒に祈り瞑想しました。その夜彼は試合に勝ちました。私の祈りはただ「神よ、御心のままになされますように。」でした。モハメッド・アリは親しい友人ですが、神がアリの中でアリを通して行うことが何であれ最良なのだ、とわかっていました。この祈りを神に捧げると、神は私たちに最善なことをしてくださいます。
質問: ということは、彼が負けることもありえたわけですね。その場合はそれが最良の結果だったのでしょうか。
シュリ・チンモイ: 全くその通りです。この場合神はアリに勝って欲しかったのです。それがスピリチュアルな観点からすると最良のことでした。しかしもし神が彼に「失敗」という経験を与えたかったのならば、また別の意味で非常に重要な内的経験を、彼は得たことでしょう。神が時に失敗の経験を与えるのは、他の競技者たちと分かちがたい一体感を確立してほしいと思われているからです。その時もし神に対する祈り「御心のままに」が誠実であるなら、神を愛しているので、失敗しても同じように嬉しく思うことでしょう。最愛のその存在は、私にとって何が最善か知っています。ですから自分たちの意思ではなく神の意思がなされるよう祈るのです。そうでないと、いつでも「勝たせてください、一番にしてください。」と祈っていることになります。最高のスピリチュアルな観点からするとこれは間違いです。自分たちの中で自分たちを通して神の意思が遂行されるよう祈るべきです。それが最良の祈りです。
質問: これまで私はプロのスポーツ選手でした。そして人生で何度か、「実際に行っているよりもっと自分にはできるのではないか。」と感じたことがありました。このような事は貴方にもよくありますか。
シュリ・チンモイ: 私の場合も同じようなことを何度も何度も経験しました。自分の最高の力を出し切っていないと感じました。ランニングで、「もっとずっとよく走れたのに。」と感じたことが何度もありました。しかし走らなかった。走れなかった。それでも不幸ではなかったです。なぜなら一番初めに神に「御心のままに」と魂からの祈りを捧げたからです。マインドは「全力を出せないようにされたのかもしれない。」と思うが、ハートは「違う」といいます。神に私の中で私を通してその意思を遂行してほしいと祈ったからです。レースで何が起ころうと、それがその時点で、神が私に世の中全体に対して表して欲しかったことなのです。ですから全く嬉しい気持ちでした。
もう一つの方法は瞑想を通してするものです。マインドを完全に落ち着け静かにし、ハートに集中します。ハートの中でのみ自分は存在し、他には何もないと感じるようにします。この時、自身の内的存在、つまり自分の神性を心に思い描いています。ほんの少しの考えも持ってはいけません。マインドは落ち着いて静かで、完全に静寂でないといけません。
祈りでは、言葉を使って神にアプローチします。「我が主スプリームよ、貴方の選ばれし道具に、最高の道具にしてください。貴方のやり方で貴方を満足させ満たすことが出来ますように。」というように。一方深い瞑想をすると、為されるべきことは神が私たちの中で私たちを通して行っていると感じます。神が自分たちの中で自分たちを通して行動しているのです。ただその完璧な道具になろうとします。
祈ると、神は天高くにいると感じます。自分の祈りが神の所へ上っていきます。瞑想すると、エレベーターが下がってきます。慈愛に満ちた神が自分のハートの中に下りてきてくれ、必要なことを為してくれます。このように神を感じるのです。
質問: 祈り瞑想することで、誰でもより良いアスリートになれるというのは本当ですか。
シュリ・チンモイ: 全くその通りです。綱引きで自分の側にもう一人友達が加わるようなものです。綱引きの相手が祈りも瞑想もしない人なら、一人ぼっちです。一方貴方には祈りという友達と瞑想という友達が味方にいます。
世界レベルのアスリートの中で、祈り瞑想をする人は本当にたくさんいます。つい先週オリンピック選手の巨人カール・ルイスが私の所へ来て約1時間程一緒に瞑想しました。もう長年の友人なのですが、前回のロサンゼルスオリンピックの際には自分で必要と感じたようで、ホテルの部屋に訪ねてきてくれ、一緒に瞑想しました。彼は自分の祈る生活がかなりの助けになっているとわかっています。何度も何度も一緒に祈り瞑想しました。
祈り瞑想すると、内的な強さ、内的能力を高めます。祈る生活、瞑想の生活で能力が高まるのですから、実践すべきです。鼓舞してくれる友達が二人余計にいるようなものです。皆友達を求めています。いざと言う時、友達は大きな助けになってくれます。スポーツでは助けに来てくれる友達が切に必要です。そして祈りと瞑想が、私たちを助けてくれる素晴らしい二人の友人なのです。もし神が無限の恵みから慈悲を下さるなら、できないことは何もありません。私は一滴です。しかし海に入った瞬間に海になります。同じように私の限界ある意志、有限の能力は無に等しいものですが、神の無限の意思と同化した瞬間に、本当に多くを成し遂げることができます。そうでなければ、この年になってこんなに重いウェイトリフティングをしようなどと考えつくこともないでしょう。誰よりも自分が疑ってかかるだろうと思います。ただ、自分がしたのではないとわかっています。自分がしたのでは無いのです。誰がしたのでしょうか。私のインナーパイロットである神です。神は無限で永遠で不滅ですから、このようなことをするのは本当に簡単です。ですからすべてにおいて、100パーセント神のおかげです。自分に何ができるかわかっています。何もできません。これまで詩を何千首と書いてきました。曲も何千曲と作りましたし、絵も何千枚と描いてきました。このようなことができたのは絶え間ない神の無条件の恩寵があったからだと承知しています。私にその価値はありません。自分より遥かに才能のある人はたくさんいます。しかし神はその無限の慈愛から私を選んでくださったのです。
ボディービルディングとウェイトリフティング界の、チャンピオン達の上腕二頭筋と三頭筋を見てごらんなさい。なんて巨大なことでしょう! しかしリフティングでその人達は最高の力、至高のパワーを呼び起こしてはいないかもしれません。ここは花の国であり、花は純粋さを象徴しています。この地球上には花を見つけるのが容易でない場所もあります。しかしオランダでは本当に簡単です。ただ見回してみればいいのです! チューリップでも他の花でもいいですが、外的な目で見ている花と同じように美しい花を、一人一人の子供さんが自分のハートの中に感じることができたら、非常に大きな助けになります。
純粋さを失った瞬間、実質全てを失います。子供はみな、神の夢です。神自身がその最高の夢を子供一人一人の中で一人一人を通して夢見ています。ある子供に純粋な心があるとわかると、神はその純粋な心を通して簡単に自らを体現できます。ですから私のオランダの子供さん達に対するアドバイスは、純粋な心をできるだけ長く保ってください、ということです。一度純粋さを失うと全てが混乱します。マインドが混乱に満ちていたら、物事を達成することはできません。神はいつも純粋なハートを求めています。毎日自分の心の中にその純粋さを持てれば、とても特別で意義深く、実りあることを成就できます。
以上が私から、花の国オランダの子供さん達に向けての、魂からのメッセージです。皆さん一生純粋な心を持ち続けて下さい。From:Sri Chinmoy,シュリ・チンモイとの対話, Agni Press, 2007
https://ja.srichinmoylibrary.com/csc より転用